第一章 闇塾経営者・・・二〇三五年六月【事件のあと】

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(三)容疑者  一年ほど前のその日は、朝からてんてこ舞いだった。予定していなかった保護者の来訪が二件あった。一件目はちょっとしたガス抜きで済んだ。家で全然、勉強しなくて、と母親は言う。その息子、小学五年生男子は都内有数の進学校である私立K中学を目指していた。成績は抜群で、このまま順調にいけば合格は間違いなかった。素頭がよく、要領のいいタイプだ。母親としては他の子と比べて勉強時間が短い我が子のことが心配でならないのだ。一通りの話を聞き、最後に一言伝えた。  彼は優秀ですから、大丈夫ですよ。  母親は安心して帰っていった。  二件目の訪問者は少々厄介だった。 「クラスに吉田さんっていう女の子がいますね。うちの子と帰る方向が同じらしく、授業が終わるといつも一緒に帰ってきているようなんです」 小学六年生女子の父親が不機嫌な表情でそう言った。ちゃんと指導してくれないと困るんですよ、と付け加えた。  当スクールでは子ども同士、保護者同士の交流を禁じている。違法行為に加担しているそれぞれの家庭のプライバシーを守るためだ。教室では生徒の名前を呼ぶこともしない。子どもたちにもその点を言い含めてはいるものの、大人の目を盗んでちゃっかり交友関係を広げる子どもがいる。  闇塾が摘発された場合、我々経営者は法の裁きを受けるが、受益者には何の罰則も規定されていない。そのせいもあってか実に大らかな保護者がいる一方で、この父親のように神経質になる者も。仕方がない。その父親の職業は、弁護士なのだから。  教室での指導を再度徹底することを約束し、何とか納得してもらった。 「お疲れ様でした」と言って、美咲が淹れたてのコーヒーをデスクに置いた。いい香りだった。 「ありがとう」と礼を言う。 「もう食事の時間ないですね」  腕時計を見ると時刻はすでに午後一時を過ぎている。一時半には採用面接のアポイントが入っていた。開業時からずっと国語の授業を担当してくれていた講師が家庭の事情で退職をすることになり、その補充のための採用だった。すでに履歴書が手元にあった。  相神圭吾―――  学生講師である今橋拓海からの紹介だった。拓海に尋ねた。 「珍しい苗字だね。沖縄の人?」と。沖縄の離島出身の母から相神の名を持つ者は沖縄の一部の地域にしかおらず、母の故郷の島の十人に一人は相神だと聞いていた。 「さあ? プライベートなことはよく知りません」と拓海は答えた。  紹介者である拓海から採用面接前日にこんな話があった。  採用しなくていいですよ。いや採用しないほうがいいです。  事情が呑み込めない俺は聞いた。 「そうなの? 中学の同級生なんでしょ。友達じゃないの?」  拓海は、友達なんかじゃないです、と顔を歪めた。 「同窓会で何年かぶりに会って、仕事紹介してって言われただけなんです。中学時代もほとんどしゃべったこともないですし。とにかくしつこくて。僕から誘ったわけじゃないですからね」  必死の言い訳だった。それもそうなのだ。スタッフには仕事のことを外で話さないよう緘口令を敷いている。噂はどこから広がるか分からない。もちろん俺は彼を疑ってはいない。今橋拓海は責任感が強く、実直な人間だ。家庭は母と彼の二人。勤労学生で学費の大半を自分で負担している。俺と同じで幼少の頃に父親を亡くしている。 「それにしても採用しないほうがいいってどういうこと?」 「なんていうか―――」慎重に言葉を選びながら、切れキャラなんです、と言った。 「切れキャラ?」 「僕の友達が相神に突然、殴られたことがありました。そいつに何かしたのかって尋ねたんですけど、まったく心当たりがないって言うんです。確かに唐突な行動に見えました」 「それ以外には?」 「決して社交的なタイプではなかったです。友達もいなかったと思います。そもそも人としゃべっているところをほとんど見たことがない。こういう仕事に向いているとは思えません」 そして思い出したように、でも成績はよかったですけど、とつけ加えた。  最後に拓海が言った一言が気になった。 「あいつ、知ってたんです、この塾のこと。そして、僕がここで働いていることも」  講師の採用はしていないのかと聞いてきたのは相神圭吾のほうからだと言う。  約束の時間になっても相神圭吾は現れなかった。 「私、日時を聞き間違えたかもしれません」 「美咲に限って、そんなことはないだろう」  そんなやり取りをしているときに、重たいガラス扉を開け、相神が入って来た。十分ほどの遅刻だった。当の本人はまったく悪びれる様子はなかった。 「相神ですけど」 「お待ちしておりました。こちらにどうぞ」美咲が応接室に案内する。  これは駄目だ、絶対に採用できないと思った。  全身から放たれる負のオーラ。それが何によるものかは全く見当がつかないが、近寄ってはならない類の人間であると直感した。  相神圭吾が応接室の上手に座る。皺の寄った濃紺のスーツ。グレーのネクタイはよく見ると市松模様だ。結び目がだらしなく曲がっている。髪の毛も伸び放題。整えておらず、グチャグチャだ。身なりには気を遣わないタイプらしい。ただよく見ると、目、鼻、口、それぞれのパーツが美しく調和しており、結構な美男子だ。 「当スクールを経営している城田です。相神さんは、今橋拓海くんの同級生だそうですね」 「まあ、一応」 「当スクールのことをご存知だったそうですが、どこでお知りになりました?」  一瞬、相神の眼が血走ったように感じた。 「知ってましたよ。昔からね。僕のこと覚えてませんか?」  荒々しい口調だった。  なに? こいつと俺は会ったことがあるのか? 「申し訳ありません。どこかでお会いしてますか?」 「そりゃ覚えてないよね。まあいいや。雇ってもらえます?」 応募の動機について尋ねる。普通なら子どもが好きだからとか、教えることが好きだからと答えるところだが、相神の答えはまるで違っていた。 「ある人からね、子どもたちを救え、と言われましてね。世の中は実に理不尽ですよね。僕も、頭のイカれた母親に随分、苦労させられました。同じように息苦しい日々を送っている子どもが、たくさんいるはずです。そんなガキを助けたいと思います」  相神は、その後も理解不能な説明を延々と続けた。  面接は三十分ほどで終わった。結局この男がどんな動機でここにやって来たのかはっきりしないまま面接は終わった。  美咲に不採用通知を送るよう指示した。もしかしたら苦情電話の一本も入るかと覚悟していたが、杞憂に終わった。拓海にもその後、連絡はなかったようだ。時間が経ち、相神のことは記憶の海に沈み、その後思い出すこともなかった。  三浦半島から急いで吉祥寺に戻った。オフィスに着いたとき、すでに日は暮れかかっていた。夕日が紅い。まるでメラメラと街を焼き尽くしているかのようだ。  事務室から採用面接用のファイルを取り出す。生徒、保護者の情報と同様、すぐに焼却できるよう、こちらも紙で保管している。  相神の履歴書のコピーと面接記録はすぐに見つかった。不採用者の情報も、念のため数年間は保管するようにしている。  間違いない。あいつだ。  改めて読みなおす。  住所はX市内。最終学歴は東京都立M高校。東大合格者を毎年、二桁出す地元で一番の公立高校だ。拓海が言うように勉強はできたらしい。高校から先の経歴は何も記入されていない。確か面接で浪人中と言っていたはずだ。年齢は二十一歳。  昨今では、現役で大学進学をするのが当たり前になった。二十一で浪人はないだろう。  面接のときにも同じ疑問を持ったが、早く終わらせたくて何も聞かなかったのだ。  被害者三名がすべてスクールの関係者で、加害者とも接点があった。今度の事件はただの通り魔事件ではないのかもしれない。  事件の原因はうちにあるのか?  何が起きているのか見当もつなかい。相神は取り調べに対し、動機に関する証言を拒否しているようだ。相神と会ったのは面接の一度きり……。いや待て。あいつは以前に俺と会ったことがあると言っていた。  いつだ?  思い出せない。  母と姓が同じであるということもなんだか気味が悪い。  静かに腕を組み、目を閉じた。
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