第一章 闇塾経営者・・・二〇三五年六月【事件のあと】

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(四)男と女 (二〇三五年六月十五日読日新聞朝刊) 『六月八日、東京都武蔵野市内で起きた通り魔事件。犯人の相神圭吾は通行人三名を刃物で切りつけた。取材時点で重傷となった三名は依然、意識不明のままだ。六月八日―――それは呪われた日なのかもしれない。二十七年前の同じ日に起きた出来事を読者の皆さんはご存じだろうか。そう、秋葉原通り魔事件だ。犯人である青年は、トラックで歩行者天国に侵入、数名の人を撥ねた。更に殺傷能力の高いガターナイフで通行人を刺した。犯行に要した時間は十分に満たなかったが、死者七名、負傷者十名の大惨劇となった。当時、この事件をマスコミは虐げられた労働者の恨みによって生じたものであると報じた。日本の労働慣行であった終身雇用が崩壊を始めた時期だった。世の中には非正規労働者が急増していた。経済格差が人々に意識されるようになった時代にその事件は起きたのだ。非正規社員であった二十五歳の青年が惨劇を繰り広げるに至った動機の背景には社会の大きなうねりがあった。その後も経済格差は着実に進行した。いまや全労働者に占める非正規社員の割合は五割に近づき、世帯年収の最頻値は二百万円前半だ。貧困は世代間で連鎖し、社会階層は固定化している。先進国の顔をしたこの国には、見えない身分制度が存在している。正規社員と非正規社員、男性と女性、大卒と非大卒、財産を持つ者とそうでない者、性愛を獲得できる者とそうでない者。あらゆる側面にヒエラルキーが出来上がり、そしてその仕組みはときとして人の尊厳を踏みにじる。今回の事件の犯人、相神圭吾も無職の若者だ。父親は元公務員で幼少の頃は中級階層の暮らしぶりだったが、父親の失職後は生活に困窮したようだ。犯人のなかに秋葉原の事件と同じ、社会に対する怨念はなかったのだろうか。(読日新聞主席論説員 福永翔)』  視野の左半分が、雑多な原色を格子模様に散りばめた光彩で覆われていく。光輝く色彩たちはまるで生き物のようにうねり、その姿を刻々と変えていく。色彩のダンス。優雅で美しい。  もう明け方だ。目をつぶる。間もなくやってくる痛みに備えなければ。ときどき見る幻覚は、偏頭痛が始まる前兆なのだ。  初めての幻覚体験は、小学三年生のとき、父が亡くなったしばらく後から始まった。自ら死を選んだ父。事業の失敗を苦にした自殺だった。縊死した父親の第一発見者は俺だった。事業の失敗ですべての財産を失い、更に離婚で家族を失った男の最後の姿が今も目に焼きついて離れない。 お父さんが空を飛んでいる。  浴衣の裾が外から入ってくる涼しげな風にふわふわと揺れていた。状況が把握できなかった俺は、優美なものを見ている気分になった。その後、どのような行動をとったのか、まるで覚えていない。父の死を客観的に理解する過程で父への想いは尊敬から軽蔑へと変わっていった。その途上で始まったのが偏頭痛とその前兆となる幻覚だった。  幻覚は決まって目覚めのときに現れる。見えるのは視野の左半分だ。首を左右に振っても視界を覆う色彩はその方向についてくる。高校生になって、人口の十パーセントほどが偏頭痛に苦しんでおり、それに伴って幻覚を見ることが珍しいことではないと知った。と同時に自分が見ている幻影がオーストラリアのアボリジニ芸術やアメリカ先住民が陶器の上に描いた紋様に通じていることに気づき、驚いた。  これは何かの導きだろうか。そう思い、見たものを絵にすることを考えたが止めた。大学生の頃だった。当時はアルバイトに明け暮れていて、芸術よりも稼ぐことの方が重要だった。 やがて来る招かれざる客。大人になって、この忌々しい痛みとは折り合いをつけて暮らしていくしかないと悟った。  ゆっくりとベッドから這い出す。ここ数日の疲れが溜まり、身体が鉛のように重い。警察の訪問に備え、スクールは休講を続けている。だが、今のところもう一方の招かれざる客は現れていない。  身体を投げ出すように、リビングのソファに座り、スマートフォンを掴む。  崎本美咲に電話をかける。 〈はい、崎本です〉 「俺だ」 〈どうしました? 疲れた声ですね〉 「分かるのか?」 〈分かりますよ。何年のつきあいだと思っているんですか?〉 「……十年か?」 〈十二年です〉 「そうか」  そんなになるか。  美咲との出会いは大学生のときだ。美咲は大学の後輩だった。初めて会ったのは人数あわせのために無理やり呼ばれた合コンでのことだ。だいたい俺は人と群れるのも、人が群れる様子を見るのも大嫌いだ。合コンに参加するなど、後にも先にもあれ一回きりだ。陽気に盛り上がる学友たちを見ていられなくなり、店の外で煙草を吸っていた俺に美咲は声をかけてきた。城田さん、でしたよね? 男女十数名が座るテーブル。その対角線上の一番遠いところに座っていた女の子だと認識できた。が、名前が出てこなかった。 「柏木美咲です」  柏木は美咲の旧姓だ。 「嫌いなんですか、ああいうノリ?」と聞かれた俺はああ、とだけ答えた。 「私もです」と美咲はにっこり笑いながら言った。  美咲はよく言っていた。  みんながやってるからっていう理由で人と同じことするなんて嫌、と。 俺たちは波長が合った。そして何度かのデートの後、つきあい始めた。  俺は大学時代、バイトに明け暮れていた。家庭教師、夜の工事現場と時給の高い仕事をいくつか掛け持ちしていた。母に迷惑はかけられないと思っていた。美咲との時間はあまりとれなかった。  そして大学三年の冬。母が倒れた。過労だった。  母さん、もう働かなくていいよ。  俺が面倒見てやるよ。  四年生になる春、俺は大学を辞めた。その時期、日々欠かさず続けていたSNSでの美咲とのやり取りをさぼるようになった。二人の気持ちは次第に離れていった。 〈話があるから会いたい〉  久しぶりに届いたのは味気ないメッセージだった。  待ち合わせ場所の公園にすでに美咲はいた。桜の季節だった。強風にピンクの花びらが舞い上がる。どこかよそよそしい表情だった。冷たい風に身体を丸めながら、別れよっか、と美咲は言った。出会いのときと同じようにああ、とだけ答えた。 「ちょっと疲れたから、今日は休んでもいいか?」 〈いいですよ。ゆっくりしてください。ところで……拓海くんのお母さんから電話ありました?〉  そういえば先ほどスマートフォンを立ち上げたとき、見知らぬ番号からの着信記録が表示されていた。そうか、拓海の母親からだったか。 〈意識が戻ったそうですよ〉 「そうか」 〈相変わらずそっけない反応ですね。本当は嬉しいくせに〉  その通りだ。美咲には何もかも見透かされている。  今橋拓海は、母親と二人で暮らしている。パン工場でパートの仕事をしている拓海の母親は、生活保護の支給を受けている。 高校を卒業したら、働くべし。  それが生活保護制度の設計思想だ。したがって、生活保護世帯の子どもが大学に進学した場合、その学費分は収入と認定され、保護費が減額される。拓海は、母親に迷惑をかけないよう、同居したまま世帯分離の手続きを行った。母親と世帯を異にする拓海は、生活費から学費まで、全てを自分で負担しなければならないのだ。拓海を見ていると、ついつい自分が大学生だった頃を思い出してしまう。拓海には絶対に大学を卒業してほしい。皆と同じスタートラインに立ってほしい。  結局、その日は一日家にいて、何もせずに終わった。  次の日の朝。ニュースの気象コーナー。アナウンサーが平年より少し遅い梅雨入りを告げている。  東京は昼から弱い雨が降り続くでしょう。傘を持ってお出かけください―――  窓の外を見る。空は雨水をじっとりと含んだ濃い灰色の雲で覆われている。  昨夜ほどではないが、まだ頭がきりきりと痛む。  テレビ番組はコマーシャルを挟み、芸能ニュースのコーナーへ。  有名女優が一般男性と入籍したことを報じている。  一般男性Aさんとの出会いは十年前。お二人は長い月日をかけ、愛を育んできたのでした―――  結婚か。  美咲とつきあっているとき、少しだけ意識したことがあった。大学を出て、就職をして、家庭を持つ。そんな平凡な人生を自分も生きることになるのだろうかとぼんやり考えた。しかし、俺の人生は結局、そんな風にはならなかった。  俺は、大学を辞めた後、闇塾ビジネスに手を染めた。  大学を中退したくらいで負け組にはならない。そう心に決めた。  とにかく稼ぎたかった。病気の母親に十分な治療を受けさせてやりたい。もちろん、それは嘘ではない。しかし、それはあまりにも優等生的な回答だ。動機は金だ。金がなければ、やりたいこともできず、学校にすら通えない。スタートラインにすら立てないのだ。夢や希望を語るには金がいる。低賃金で生活に喘ぐなど真っ平だと思った。  一方の美咲はと言えば、大学を何の問題もなく卒業し、人材派遣の会社に職を得た。三年勤め、同期入社の男性との結婚を機に退職した。今ではほとんど死語となった寿退社だ。今も子どもはいない。旦那に俺のことを何と説明しているのか。そもそも違法な仕事に係っていることを旦那は知っているのか。いろいろ想うところはあるが本人に尋ねたことはない。  このビジネスを始めるとき、結婚はしないと決めた。違法行為と暖かい家庭の団欒を結びつけて考えることができなかった。そして、何よりも自信がなかった。  あの父と同じ血が俺にも流れている。生きることを諦め、家族を守り切れなかった弱々しい男の血が。俺には家族を幸せにすることはできないのではないかと思っている。  テレビは先週末に公開された中国のコメディ映画が公開初日の観客動員数の記録を塗り替えたと伝えている。  どうでもいいニュースだ。そろそろ出かけよう。
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