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(五)招かれざる客
(二〇三〇年六月十六日読日新聞朝刊)
『東京都X市で発生した通り魔事件の容疑者、相神圭吾は取り調べに対し、「内なる声にしたがって行動した」と供述していることが分かった。警察は凶器を事前に用意するなど犯行に計画性がある反面、動機について明確な供述を得られず、精神鑑定も視野に入れ捜査を続ける方針だ。同容疑者は六月八日七時四〇分頃、X市内の路上で通行人三人をナイフで刺した。うち二人が意識不明の状態、一人は昨日、意識を取り戻した』
東京都M市にある古いマンション。平成の初期に建てられたと思われるその建物にエレベータはない。目的の部屋は五階。階段を登る。
目にするのは高齢者ばかり。空き家もあるようだ。人知れず営業するには持って来いの場所なのかもしれない。それにしても急な階段だ。年寄りにこの昇り降りは辛いに違いない。
五〇五号室―――表札はない。ドア横のボタンを押す。来訪を告げる呼び出し音は、ジーとこれまた古めかしい。
ドアが勢いよく開いた。顔を出したのは古川玄太。この部屋の主だ。五十代と聞いていたが、肌艶がよく若々しく見える。
「お待ちしてました。どうぞ」
失礼します、と言ってなかに入る。通されたのは奥のリビングルーム。十四、五畳はあるだろうか。そこは寺子屋という言葉がぴったりの学習空間になっていた。二人用の脚の短い長机が四台と座布団。可動式のホワイトボードが設置されている。その背後には壁一面を覆う本棚が備えつけてあり、参考書や問題集がびっしりと並んでいる。
古川もまた同業者なのだ。
「はじめまして、城田と申します」
「古川です」
通常のビジネスシーンのような名刺交換はしない。それが違法行為を行う同業者同士の礼儀だ。
「受験の神様にお目にかかれて光栄ですよ」と古川。
「何をおっしゃいます」と少しだけ謙遜して見せる。
闇塾経営の肝は入試の合格実績にある。うちの合格率は目覚ましく、しかも難関中学ばかりだ。これが噂となり、客が客を呼ぶ。いつしか俺は、業界で受験の神と呼ばれるようになった。神などという呼び名は大変、おこがましいが、悪い気はしない。うちは受かるべき子どもを選別して集めているだけで、実績は俺の実力ではなく、子どもの実力だ。合格実績という点では古川のところも負けてないはずだ。
促されるままに床に座る。
「足崩していいですか?」正座は苦手だ。
古川がお茶を運んできた。古川の他には誰もいないようだ。事務員を雇っていないのだろうか。中学受験の状況など申し訳程度の雑談の後、古川が言った。
「大変な事件に巻き込まれましたね」
「実は古川先生にお電話で伝えたのは、事件の概要のごく一部でして……」
「というと?」
「事件の関係者は被害者だけじゃないんです」
外で犬が激しく鳴いている。古川は窓の方向を一瞥し、その鋭い視線をこちらに戻した。
「加害者の男とも会ったことがあるんです。うちの採用面接を受けたことのある者でした。うちのスクールが事件の発端になっているのかもしれません」
「あの相神圭吾がお宅にも……」と言って古川は下を向いた。一瞬の逡巡。
「うちにも来てるんですよ、相神は」
「えっ?」
「講師をさせろってね。もちろん不採用にしましたよ。お宅もでしょ?」
「はい」
「変な奴だったもんね。ありゃ、無理、無理」
そうか、相神はここにも来ていたか。
「相神はどうしてここを知っていたんですか?」
「あいつね、入塾希望で母親が連れて来た子だったんだよ。当時は小学六年生だったかな。この母親ってのが、また変わってたね」
「で、入塾を許可したんですか?」
「許可ってね。うちは城田先生のところと違って来るもの拒まずですよ。でもね、結局、入塾はしなかったよ。公務員をしていた父親が首になったとかでね」
「そうですか……」
「城田先生のところは結構お高いんでしょ。うちはね、言い値。寿司屋といっしょ。貧乏人からはお金取らないこともある。教育を受ける機会は、平等じゃないとね」
そのとき、ジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが震えた。振動はとまらない。電話のようだ。ちょっとすみません、と言って機器を取り出す。〈ベストケア三浦〉と表示されていた。また母からの伝言か。あれが欲しい、これが食べたいという母のわがままを職員が馬鹿正直に伝えてくるのだ。古川が探るようにこちらを見ている。大丈夫です、あとで折り返しますから、とにっこり笑って答える。
「ところで、城田先生は雑談をしにここに来たわけではないでしょ」
そうなのだ。ある決断をし、ここに来たのだ。
「今回の事件もあり、廃業を決めました」
「……」古川は何も言わない。
「警察がやって来るのも時間の問題だと思います。その前に子どもたちの受け入れ先を決めておきたい。古川さん―――」相手の目を見据える。
「うちの生徒を預かってもらえませんか? お会いするのは初めてですが、頼るなら古川さんしかいないと決めていました」
古川は俯き、しばらく考え込んだ。
「先生のところ、生徒何人いるの?」
「三十八人です」
「そりゃ多いね。預かれるのは五人だね。これは?」
古川は、人差し指と親指で丸を作ってみせた。金のことだ。取り引きの開始。できるなら五年生以下でお願いしたいね、と古川が言う。五年生以下なら、一年以上に渡って高額の月謝を受け取ることができる。多少の移籍金を支払ってでも充分に元が取れるという計算だ。
「分かりました。では全員、五年生で。皆、成績優秀です。世帯収入は、一千万円超えの家庭ばかりですから、月謝を取り損なうこともないでしょう。一本でどうですか?」
一本とは百万円のことだ。
「いいでしょう」
古川がにやっと笑う。
その後も対話は続いた。古川は単なる金の亡者ではないようだ。商売人の顔と教育者の顔を併せ持っている。本棚にびっしりと並んだ書籍や参考書が、相当な研究家であることをうかがわせる。そして、先ほど冗談めかして言った、貧乏人から金は取らないとの発言。あれはどうやら嘘ではないようだ。
人には様々な生き方があるものだ、と実感した。
たった五人が。残り三十数名の行き場を探さなければ。
城田先生はこれからどうするんですか、と古川は聞いた。
「これからゆっくり考えます。幸いたっぷり蓄えもありますし」と答えた。
施工会社との打ち合わせ時間が迫っていた。オフィスの賃貸契約解約後、現状復帰のための工事について打ち合わせることになっている。
古川のマンションを後にし、JRの最寄り駅に急ぐ。予定より長居をしてしまった。駅の階段を登るとちょうどオレンジ色の電車がホームに滑り込んできた。スクールの最寄りまでは一駅。十分少々でオフィスに着くだろう。業者がはやく到着していたとしても、美咲がいるはずだから大丈夫だ。
時刻は三時少し前。電車は思った以上に空いていた。
ドアの脇に立つ。電車が走り始め、風景が流れていく。見渡すかぎりの建物。それぞれのなかにたくさんの人がいて、それぞれの人生がある。
古川との会話を反芻する。生徒の移籍交渉の後、話題は再び相神圭吾のことになった。相神が古川を訪ねたのはうちの面接の前だったようだ。不採用の連絡をした後もマンションの周辺で幾度か相神を見かけたそうだ。
授業が終わって帰って行く子どもを睨むように見詰める相神に古川は声をかけた。
このマンションには警戒心の強い年寄りが多いから、そんなところで突っ立ってると警察に通報されるぞ。
そう脅すと無言で去って行き、それ以来姿を見かけなくなったという。
相神の目的は何だったのか?
ぎゃー。
子どもの激しい泣き声で思考が中断した。少し離れた座席に座っている若い母親が娘を叱責している。まだ三歳くらいだろうか。距離があるため、母親の言葉は聞き取れないが、母親の顔が上気しており、感情的になっていることが分かる。次の瞬間、母親の手が子どもの頬を叩いた。更に子どもの泣き声が大きくなる。
電車が目的地に着いた。ドアが開く。私と一緒に数名が車両を降りる。皆、母娘が気になるのか、そちらをチラチラと見ながらそれぞれの目指す場所へと散っていく。
オフィスに到着したのは約束の三分前だった。階段を駆け下り、オフィスの扉を開く。美咲が飛んで来た。きりっとした目元が更に吊り上がっている。表情が険しい。何かあったようだ。
「来ました」
美咲のその一言ですべてを察した。招かれざる客はやはりやって来た。
「応接です」
「分かった。施工業者は?」
「まだ来ていません」
「業者は教室で対応してくれ。そっちは任せていいか?」
「もちろんです」
覚悟を決め、応接室に向かった。
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