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(六)黄昏
男は警察手帳を取り出した。
「X署の音無と申します。ちょっとお話をうかがいたいと思い、お帰りをお待ちしていました」
年齢は四十代中盤といったところだろうか。柔和な表情の裏側に営利な洞察力を隠している。警戒しなければいけないタイプの人間だ。
「こちらは柿谷。同じX署の者です」と音無が隣にいる若い男を紹介する。
美咲が用意したお茶が音無と柿谷の前に置かれていた。音無がそれに手を伸ばし、一口だけ口に含む。
「立派な教室ですな。お若いのに大したもんだ。お客は子どもだけですか?」
「はい、そうです」
「私もね、定年したら何か楽器でも習いと思ってるんですよ。そうか、ここは子どもだけか。大人の音楽教室もあるんですよね?」
「ありますよ。この街にも何軒か」
「どこか、いいところがあったら紹介してください。ところで―――」
音無はあくまでも笑顔を崩さない。
「先日起きた通り魔事件のことなんですが、被害に遭われて亡くなったお二人はこちらの関係者ですか?」
やはり気づいたか。今橋拓海の件も話題に上るのだろうか。警察は意識を取り戻した拓海のところにも行っているはずだ。拓海がスクールの闇塾経営についてしゃべっていないことを祈った。
「そうです。お二人のお子さんがこちらでレッスンを受けていました」
「その二人の子ども、どうしてます?」
「事件以来、レッスンはお休みをしていますおり、会っていませんのでよく分かりません」
「まあ、そうでしょうな」
この刑事二人は何を探りにきたのだろうか。うちの実態にも気づいているのか。
そんなことを考えているうちに表情が険しくなっていたのか、音無は城田さん、そんなに怖い顔しないでください、私たちは被害者の足取りの確認をしに来ただけですから、とふくよかな笑顔で言った。
「二人の子どもがこの建物の地下から出てくるのを見た人がいましてね。この階にあるのは他に税理士事務所と商事会社でしょ。子どもが出入りするなら、ここだなと思ってお邪魔したんです。被害に遭われたお二人は子どもさんのお迎えか何かでこちらへ?」
「お迎えでいらしたのは間違いないと思います。ただしこちらでは姿をお見かけしていません。保護者の方がお待ちいただくスペースは広くありませんので、大抵の皆さんは外でお子さんをお待ちになります」
少しだけ嘘をついた。保護者がここまで下りてこないのは、待合スペースが狭いからではなく、他の保護者と顔を合わせたくないからだ。
「ええと、お子さんたちの名前は―――」音無が手帳をめくる。
「朝倉優樹菜と勝山和秀でしたね。二人のレッスンが終わったのは何時ですか?」
「午後七時半です」
「すると、二人の被害者はここを出てきた子どもたちと落ち合ってすぐ事件に遭遇したということですな」
その後もいくつかの質問が続いたが、そのどれもが被害者の当日の行動を確認するためのものだった。
安心した。刑事たちの来訪目的はあくまでも通り魔事件の捜査というこのようだ。まだバレてない。このまま静かにスクールを閉鎖できるかもしれない。そう期待した。更に刑事の質問は続いた。
「被疑者はX市在住の相神圭吾と言いますが、ご面識はありますか?」
何と答えたらいいのだろうか?
正直に回答すればスクールのことをあれこれと詮索されることになる。ならば嘘をつくべきか? 音無は俺の逡巡を見透かすように言った。
「名前に聞き覚えでも?」
やはり、面識があるとは言えない。
「いいえ、聞き覚えはありません。実は母の旧姓が相神と言いまして、遠い親戚にそのような者がいたような気がしただけです」
「お母様は相神さんとおっしゃるんですか。珍しい苗字ですね。沖縄の離島のご出身ですか?」
「はい、そうです。刑事さん、お詳しいですね」
「古い友人に相神という者がいまして、沖縄県のA島出身でしたから」
「母もその島の生まれです」
「いいところですね。私も一度だけ訪ねたことがあります」
「私自身は幼少の頃に一度行っただけですので、あまり記憶もなくて」
被疑者に関する会話はそれで終わった。
二人の刑事は二十分ほどで帰っていった。結局、スクールの経営に係る話題にはならなかった。今橋拓海に関する質問もなかった。どうやら拓海は、何もしゃべらなかったようだ。
刑事たちが話している間もジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが何度か震えた。ベストケア三浦からの着信が三回、留守番電話に新着のメッセージが二件あった。尋常ならざる気配を感じ、伝言を再生する。
〈新しいメッセージが二件。最初のメッセージです〉
ゆっくりとした、しかも短調なアナウンス。
〈ベストケア三浦の楠木里美です―――〉
母が久美ちゃんと呼ぶあの子だ。切羽詰まったような口調だった。
〈お母様が三浦総合病院に搬送されました。至急、病院にいらして頂けないでしょうか。よろしくお願いいたします〉
なに?
〈次のメッセージです〉
これもベストケア三浦からの連絡のようだ。
じれったい。早くしろ!
〈楠木です……〉
沈黙。
何だ!
〈……お母様の意識がありません。……三浦総合病院でお待ちしております。申し訳ありませんでした……〉
しばらくの沈黙の後、伝言は切れた。
〈メッセージは以上です>
何が起きているのかさっぱり分からず、しばらくその場に立ち尽くした。
自宅マンションの駐車場から車を出す。
一体、母に何があったのか?
痴呆は進んでいたが、足腰の衰え以外、身体は何ともなかったはずだ。事故か何かだろうか。
制限速度を無視して車を走らせた。
三浦総合病院に着いたのは辺りが暗くなり始める時間だった。
黄昏時。
そういえば、母は『黄昏』という古いアメリカ映画が好きだった。俺が生まれるはるか以前の作品だ。美しい湖畔に住む老夫婦が孫との交流をきっかけに疎遠になっていた娘と和解していく物語だ。ヘンリー・フォンダの演技がいいのよ。母が何度もこの映画の話をするので、暇つぶしに観てみようと思った。とてもいい作品だった。
人生の黄昏時。人にはそれぞれのドラマがある。
病院に駆け込む。人が少なくなった待合スペースに楠木里美を見つけた。俯いたまま、じっと動かない。
「楠木さん!」
里美が顔を上げた。前に会ったときのような笑顔はない。泣きはらした目だ。里美はゆっくりと立ち上がり、申し訳ありませんでした、と言って、頭を下げた。
「……お母様はICUにいらっしゃいます。まだ意識は戻っていません」
責任を感じてるのか、終始おどおどしている。
「母に何があったんです?」
「私のせいなんです。私が目を離さなければ……」
里美とともに母がいるICUに案内された。一昔前まで、一般の面会者がICUに立ち入ることは厳しく制限されていた。最近では全国的に厳しい制限が緩和されてきており、この病院でも午後一時から七時までなら、時間を気にせず面会ができる。
広く真っ白い部屋に十台ほどのベッドが並んでいる。様々な機器がベッドを取り巻いており、その様子はまるで来訪者が近づくのを拒んでいるかのようだった。
機械越しに横たわる母の様子をうかがう。
時間が止まってしまったように感じる。
「ここ数日、お元気がなくて……」
里美が沈黙に耐えきれなかったのか、しゃべり始めた。
「母がですか?」
「はい……。施設内で変な噂が……」
「変な噂?」
里美は明らかに躊躇っている。なかなか次の言葉が出て来ない。
「……尊さんが違法なビジネスに手を染めていると……。汚いお金で、豪勢な暮らしをさせてもらっている、と酷い言い方をする入所者もいて……。そんな噂がお母様のお耳にも届いたのではないかと……」
母に闇塾のことは内緒にしていた。
X市で音楽教室を始めたら、大繁盛だよ。そう言ってあった。
「誰がそんな噂を?」
「分かりません。発端はSNSだと思います。……私も、書き込みを読みました。あと……」
「あと何です?」
「息子が事件に巻き込まれているかもしれない、ともおっしゃっていました。」
どういうことだ?
母はなぜ、俺と事件とをどのように結びつけていたのだろうか? 被害者がうちのスクールの会員であることはまだ報道されていないはずだ。
「あと、何か気になることはありませんでしたか?」
里美は少し考えた後、答えた。
「X署の電話番号を調べてほしい、と頼まれました」
「それで?」
「お教えしました。何をされるんですか、とお聞きしましたが、何もお答えにはなりませんでした。電話は、かけていらっしゃったようです。皆さんがいる場所から少し離れた場所で、スマートフォンを耳に当てているお姿をお見かけしました。
ずっと、ふさぎ込んでいらっしゃったので、先輩からも絶対に目を離さないようにきつく言われていたのに……。私、今日忙しくて……。大きな音がして……、音がした方に走って行ってみると、階段の踊り場に、逆さまにひっくり返った車椅子と一緒にお母様が……、倒れていました。……申し訳ありませんでした」
再び、母の顔を見詰める。
母さんはこの事件のこと、何をどこまで知っていたんだ?
母は何事もなかったかのように眠っている。その顔は至って無表情だった。
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