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第二章 専業主婦・・・二〇三五年五月【事件の少し前】
(一)孤独
「やっぱり俺、大学行かないから」
長男はそう言うと、そそくさと階段を駆け上がっていった。二階でばたんとドアを閉める音がした。部屋に籠ったのは息子の方なのに、なぜか自分の方が世界から締め出されたように感じた。
先週の記憶が蘇る。ゴールデンウィークが明けてすぐのことだ。
長男、重樹が通う高校の三者面談。
重樹は俯きながら消え入るような小さな声で言った。
「大学には行きません。もう勉強したくなから」
長男は、有名私立M大学の付属高校に通っている。大学に設置されていない学部、学科を志望する一部の学生を除き、九割の卒業生が内部進学を果たす学校だ。長男はこの春、高校三年生になった。進学する学部を選ぶ大事な面談だった。
「なぜなんだ? M大の医学部に進むためにこの学校に入学したんだろ?」と担任教師は諭すように言う。
「………」
「朝倉くん?」
恐らく三〇歳前後であろう男性担任教師の口調はあくまでも紳士的で優しげだが、その声はか細く、弱々しい。長男は俯いたまま、何も反応しない。
イライラする。この出来損ないの息子にも無力な教師にも。
「ちょっと、なんなのよ。何とか言いなさいよ」気づくとそう声を荒げていた。
「正美さん!」
姑の声にぎょっとした。記憶が飛んでいる。重樹が階段を駆け上ってから、私は何をしていたのだろうか。
「水道の水、出しっぱなしじゃない」姑の責め立てるような口調。
「すみません」
急いでリビングのソファから立ち上がり、キッチンに走り、蛇口を閉める。
ここは東京都杉並区、閑静な住宅街の一角にあるこの家に住んで十数年が経つ。敷地は広く、ちょっとした豪邸だ。そろそろ子どもたちに快適な勉強部屋をという想いで家を探していたときのことだ。うちに住めばいいじゃない。姑のそんな一言で義理の両親との同居が決まってしまった。夫は基本的に姑の言うことに逆らわない。昔も今も。
結婚当初から姑との関係は最悪だった。別々に暮らしているときは我慢もできたが、一つ屋根の下で暮らすとなると、そうはいかない。それでも義理の父が存命の間はよかった。彼は懐が深くおおらかな人で、姑との緩衝材になってくれていた。そんな義父も五年前に他界している。
「正美さんったら、最近ぼんやりしていることが多いわね。しっかりしてくれないと」
義母はそう吐き捨てるように言い、リビングから出て行った。
鬱々とした感情が溜まりをつくり、沸々と煮えたぎってくるのが分かる。
なぜ、私のことをみんなでいじめるのよ!
夫とは職場で知り合った。短大に通う間に医療事務の資格を取得し、学校を出て就職したのが朝倉病院だった。朝倉病院二代目院長である夫は当時、入職二年目で、すでに副院長となっていた。交際が始まったのは、勤め始めた年の夏のことだった。院全体で行う納会の後、もう一軒行こう、と夫が声をかけてきた。呑めませんけど、お付き合いします、と答えた。何人か一緒だろうと思ったが、誘われたのは私だけだった。私は少し有頂天になった。若い女性職員は他にもたくさんいるのに、私だけが選ばれたのだ。
連れていかれたのはホテルのバーだった。地上二十五階。果てしなく拡がる新宿の街並みをこんな高い場所から見下ろしている。それまで体験したことのない高揚感に包まれていた。夫とはその日のうちに身体の関係になった。
結婚が決まったのはその半年後だ。そのときお腹には長男の重樹がいた。慌ただしく挙式の準備が進んでいく。正美さんのお腹が大きくなる前に済ませないと。義理の母はそう言いながら、私の意向などお構いなしに式の準備を仕切った。
義母の物言いに腹を立てることもあったが、結婚を控えたその時期こそが、人生で最良の日々だったと思う。院長婦人になれる。そして何よりも嬉しかったのは、実家を出られることだった。あの家から離れられる。もうあの母親の思い出に縛られることもない。そう思うと心が軽やかになった。
玄関の鍵を開ける音が聞こえた。夫が帰ってきたようだ。
「お帰りなさい」
リビングに入ってくる夫に声をかける。ああ、と微かに反応するだけで、こちらを見ようともしない。そのまま私の横をすり抜けて奥の自室へ。これがこの家の日常だ。
夫が横を通ったとき、ボディソープの匂いがふわっと漂った。この家に置かれたものではない。
またどこかの女と会ってきたのだろう。
今日も夫は車でどこかに出かけて行った。趣味は自動車。四台を所有している。休みになると服を着替えるように車を選び、出かけて行く。彼の車に私たち家族が乗せてもらえることはない。狭い車内は彼だけの世界なのだ。そこに足を踏み入れることは何人たりとも許されない。
休みになると、家族を顧みず一人で出かけていく夫への不平を姑の前で漏らしてしまったことがある。
純一さんは家族のために一生懸命、働いてくれてるんでしょ。家庭を守るのはあなたの仕事。贅沢言わないでちょうだい。
逆にたしなめられてしまった。
義理の母は一人息子である夫を溺愛している。ちょっと行き過ぎではないかと思う親子関係に辟易することが多い。例えば服。夫の服は、未だに義母が買い揃えている。毎日着る服も母親が選んでいる。今風でセンスはいいが、着せ替え人形じゃあるまいし、気持ちが悪い。
夫は決して見場の悪いほうではない。若い頃はスタイルもよく、一緒に歩いていて誇らしかった。今ではお腹が出て、すっかり中年体形だが。
夫の部屋のドアを恐る恐るノックする。
「重樹のことで相談があるんですけど」
ドアは開かない。ああという声が微かに聞こえる。
「学校で三者面談があって……」
「疲れてるんだ。明日にしてくれ」
拒絶。私たち夫婦に明日なんてきっと来ない。
すごすごとリビングに戻る。
窓の外は雨。窓枠から見える風景がぼやけている。むしろガラスに映った自分の姿のほうが鮮明だ。そして走馬灯のように蘇る過去の記憶。様々な映像が入り混じって、現実が混濁する。
なぜ私のことをみんなでいじめるのよ!
そしてもう一人。二階の部屋に私を悩ませる者がいる。
視界が大きく歪む。私はバタバタと二階へ駆け上がる。
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