第二章 専業主婦・・・二〇三五年五月【事件の少し前】

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(二)拒食  先日のこと。子どもたちを学校に送り出し、洗濯や掃除などルーティンの家事を終え、一息ついた頃、家の電話が鳴った。 〈優樹菜さんが倒れました。迎えに来られますか?〉  小学校の担任教師からの連絡だった。 娘の優樹菜はこの春、小学六年生になった。地元の公立中学校には行かせず、私立の中高一貫校に進ませる予定だ。 受験生だというのに、まったくもう。  すぐ行きます、と言って電話を切った。 「優樹菜ちゃん、どうかしたの?」  ぎょっとして振り返る。義理の母が気づかぬうちに背後に立っていた。 「倒れたみたいなんです。迎えに行ってきます」 「早く迎えに行ってあげて頂戴。ああ心配だわ。それにしても正美さん、あなた、子どもの健康管理もできないなんて、母親失格よ」  不愉快な小言になどにつきあっていられない。申し訳ありません、と形ばかりの謝罪をし、出かける支度をしに寝室に入った。夫婦の部屋は別々にある。この家には七つの部屋があり、義母、夫、二人の子どもと私、それぞれが一つずつを専有している。使っていない部屋は物置のようになっている。私の部屋は一階にある。もともとは結婚して家を出た夫の妹が使っていた部屋だ。  ドレッサーの前に座る。この部屋には、義妹が残していったものがたくさんある。このドレッサーもその一つだ。高価なものなんですから、大切に使ってくださいね。双子の子どもを連れて遊びに来た彼女が厭味ったらしくそう言った。中世ヨーロッパ風のごてごてしたデザインで趣味が悪い。  鏡に映った私がいる。目の下に薄っすらと隈ができている。ファンデーションで隠せるかしら。そう思いながらメークを始めた。  娘の通う小学校は、古い住宅街の真ん中にある。二〇〇〇年代には子どもがたくさんいて活気のある地域だったが、住民の高齢化が進み、近頃はめっきり元気がない。  正門をくぐり、正面玄関の脇にある事務室に声をかける。 「六年二組の朝倉優樹菜の母親ですが」 「はいはい、こちらにどうぞ」  校内用のスリッパに履き替え、中年の少し太った女性事務員の後について歩く。案内されたのは四人掛けのテーブルが置かれた小さな会議室だった。 「娘は?」 「栗林先生がすぐに来ますので、お待ちください」  事務員は私の質問には答えず、そそくさと部屋を出ていった  五分ほど待った。  お待たせしました、と言いながら栗林郁美が勢いよくドアを開け、入ってきた。急いで来たからだろうか、少し息が上がっている。正義感が強そうなタイプで、私はこの教師が苦手だ。クラス替えは二年に一回。五年生と六年生は同じクラスで担任教師も変わらない。この栗林という教師は、娘の担当になって二年目なのだ。 「ご無沙汰しております」  栗林は丁寧に頭を下げる。 「どうも。で、優樹菜はどちらに?」 「保健室で休んでいます。二限目の体育の時間に倒れました。軽い貧血だと思います」 「そうですか。とにかく連れて帰ります」 「あの……」 栗林が怪訝そうに私の顔を覗き込む。「優樹菜さん、お食事はきちんと採っていますか?」  不愉快な物言いだ。 「もちろんですよ。先生、何をおっしゃるんですか」 「申し訳ありません。最近、急に体重が減ってげっそりしたように見えたので、調子でも悪いのかと心配になって」  この教師は明らかに私を疑っている。子どもに食事を与えないなんて、そんな酷いことを私はしない。失礼な。 「保健室はどこですか?」  保健室は一階にあった。栗林に案内されて、部屋に入る。デスクワークをしていた養護教諭が立ち上がり、お世話になっております、と言いながら頭を下げた。私は彼女の挨拶を無視し、優樹菜が横になっているベッドの傍らに立つ。優樹菜がこちらを見詰めている。 「ごめんなさい」  娘は、消え入りそうな声で言った。  帰り道。タクシーのなか。長い長い沈黙。 「今日の晩ご飯はコロッケにしようね」 「うん」  交わした会話はそれだけだった。  家に着くと、優樹菜は何も言わず、自分の部屋に入っていった。  小うるさい姑はいないようだ。恐らく華道教室に行っているのだろう。終わった後のお茶の会ではきっと私の悪口を言っているに違いない。  ゴトっという、固いものが床に当たる音が二階からした。まただ。椅子を乱暴に曳くから。何度言っても直らない。私はこの音が大嫌いなのに。  優樹菜が食事をしなくなったのはこの一か月ほどだ。お腹が空かない。娘はそう言った。三日目、食べたくないという娘に無理やり食事をさせた。一旦、部屋に戻った娘がトイレに駆け込んだ。いつまで経っても出て来ない。大丈夫?、と外から声をかけてみると、少しの間をおいて、何でもない、という返事が返って来た。しばらくしてトイレから出て来た娘は私と目をあわせることなく、急ぐように二階に上がっていった。トイレを覗く。胃酸のすえた匂いがした。床も少し汚れていた。食べたものを戻していたのだ。  栄養を摂取しないため、娘の体力は急速に低下した。朝、起き上がれず学校を休むことも多くなっていった。今日は、昨晩に食事ができたため、少し元気になって二日ぶりに学校に行ったのだ。  栗林の怪訝な表情が蘇る。 失礼だわ! 私が食事を与えていないわけではない。娘が勝手に食べないだけよ。  広いリビング  空気が淀んでいる。  何か汚らしいものが身体にまとわりつく感じがする。 ―――カーテンを開けて空気を入れ替えなければ。 ―――ここの空気を吸い込んだら、きっと身体が腐ってしまう。  力任せにカーテンを開ける。 ―――何これ!  窓ガラスに人の顔ほどの大きさの蜘蛛が張りついている。  触覚が厭らしく動いている。  思い切りガラスを叩く。  巨大な蜘蛛がベランダの床に落ちる。  ボトッと嫌な音がした。  仰向けになってもがく蜘蛛。  その下から真っ赤な血が広がっていく。  呻き声が聞こえる。 ―――気持ち悪いわね。 ―――お願いだから、死んでよ!  呻き声が次第に人の声に変わっていく。  消えてしまえ! いなくなれ! 消えてしまえ! いなくなれ 消えてしまえ! いなくなれ!……  私は頭を覆った。
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