一章 影の病

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 ドスッ 何かに当たったようだ。ルーティック侯爵はぶつけた手首を軽く撫でると、「おっと、これは失礼」と一言。  ぶつけた衝撃か、散乱したワインが男のシャツに染み、酷く汚れていた。ルーティック侯爵は少し慌てた様子でハンカチを取り出す。 「いえいえ、こちらこそ不注意が過ぎました。私はすぐに着替えてきますので、ルーティック侯爵はどうかお気になさらず」  男はルーティック侯爵を気遣ってか、自らもハンカチを取り出し汚れを拭き取る。それは、どこか頼りない様だった。しばらく様子を伺っていたルーティック侯爵もハンカチをポッケに雑に仕舞うと、口を開いた。 「私も随分と顔が広い方ではあるのですがね、貴方を見るのは今日が初めてです。こんな時に申し訳ないが、どうかお名前だけでも聞かせていただけませんかな」  ルーティック侯爵は緩んだ笑みで話しかける。 「いやぁ、お恥ずかしい。私はコライ準男爵マーク・ロイと申します。どうか、お気になさらないでください。今回の件は私の不注意が招いた災いです。ルーティック侯爵?」 「じゅ、じゅ、じゅ、じゅ、じゅ……」  冷静なコライ準男爵と違い、ルーティック侯爵は今にも飛んでいきそうな勢いでいた。 「準男爵…… こ、こ、これは何かの間違いでわ……」 「いえ、私も招待をいただいた時は、驚きました。こういったパーティーも初めてでしたから、皆様に迷惑をかけまいと私なりに努力を……」 「黙れ」ルーティック侯爵が一言。 「はぁ…… いやはや、どうやら本当に準男爵のようだ。いや危ない、私ともあろう者が危うく準男爵などという下も下の底辺貴族にモノを恵んでしまうところでった。なんたる屈辱、そうは思わんかナンタラ準男爵よ」 「申し訳ございません…… ルーティック侯爵」  次第に騒ぎを聞きつけた会場の人々の視線が、ルーティック侯爵へと向けられる。その表情は、道化師のショーでも見ているかの如く愉しげだった。 「しかしまぁ、ごく稀に誤ってお前のような…… おっと失礼、"貴殿"のような底辺貴族に招待が渡ることもあります。しかし、それはミスによって起きること、それを真に受けて来てしまうとは…… なんとも哀れな。私なら、スタッフにでも変装して身分だけは死んでも伏せるというのに ……おっと、どちらへ行く気ですか」 「失礼します」と着替えに向かうコライ準男爵をルーティック侯爵が止める。周りの観衆達の視線がルーティック侯爵を上機嫌に仕立て上げる。 「まったく、誤りもしないで一人どこかへ行ってしまうとは常識のカケラもない男だ。ほれ見ろ、私の靴にワインの染みが…… まさか、このまま社交会に参加しろと言うつもりじゃないだろうな? いやぁ、どうしたものか」  コライ準男爵は拳を握りしめると、膝をつき持っていたハンカチを靴に近づける。 「貴様! まさか、その汚いハンカチで、この私の靴を磨こうというつもりではないだろうな? まったく、これだから……」 「申し訳ありません。しかし、他に拭く物を持っておりません」  ルーティック侯爵は不敵な笑みを見せる。 「あるではないか。ほれ、舌を使え。構わん、どうせワインだ。グラスで飲もうと靴で飲もうと変わらんさ。ほれ、早くしろ染みてはたまったもんじゃないからな」  靴に付いたのは僅か数滴、それにとっくに染みている。真っ赤に染まったコライ準男爵は覚悟を決め顔を近づける。  バシャッ 冷たい…… ルーティック侯爵の顔から笑みが消える。アルコール臭い匂いがルーティック侯爵の全身を包む。頬から滴るその液体は、どこか馴染みのあるモノだった。会場の雰囲気は一変し、一瞬にして物静かになる。 「白ワイン……」ルーティック侯爵が口ずさむ。突如、何者かに背後からワインをかけられたようだ。それも頭から。しかし、ルーティック侯爵の顔に笑みが蘇る。  私は知っている。この階級社会において、上の者が下の者を虐める様は見ていて面白いということを。変わって、下の者が上の者に楯突くのは哀れでつまらないことを。  そして、今の会場の空気が後者であることを。まったく、今日の私はついている。おそらく、底辺貴族の仲間が居ても立っても居られずに……  ルーティック侯爵は振り返ると、相手の腕を掴んだ。 「底辺貴族が、私にこんなことをしてタダで済むと……」
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