一章 影の病

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「知らないわよ。あの男が目立ってたから少し脅かそうと思っただけ……」 「はぁ…… あの男ではなくルーティック侯爵です。少しは名前を…… っと言っても、もうルーティック侯爵ですら無いかも知れませんが。怪我の程はいかがですか」 「別になんて事ないわ。みんな少し騒ぎ過ぎなのよ。このくらい何の問題もないのに」  オルディボは姫の腕を優しく握ると、痛めた手首をじっと見つめる。 「少しアザができている。かなり強く握られたのでしょう。まったく、姫様が勝手なことするからですよ。と言っても責任は私にあります。ここでしばらく待っていてください。今、医療キットをお持ちします。何人かの兵士が巡回していると思われるので、何かあればそこまで知らせて下さい」  オルディボの言葉に姫は「早くしなさい」と軽く返事を返す。急いで廊下を駆けるオルディボの背を前に姫は寂しげな表情を見せた。兵士が巡回していると言っていたが、ここまで一人として見かけていない。姫は階段を横目に壁を背もたれにする。  チュチュッ 矮小な鳴き声が廊下に響く。姫は足下に視線を落とす。 「あら、随分と小さな兵士が巡回しているのね。全然見当たらないわけだわ」  姫は冗談を交えながら苦笑いをする。 「私に何か用かしら? 良いわよ。少しだけ話相手になってあげる。あなた、名前はなんて言うのかしら? ちなみに私はべニート・リアナっていうの。これでも、ディグニス帝国皇位継承権第一位なのよ。凄いと思わない」  姫は腰を低く目線を下げると、野良ネズミに対し自慢気に話を進める。側から見れば、それは滑稽以外の何ものでもない。 「チュチュっていうの? 珍しい名前ね。でも気に入ったわ貴方、私の従者になりなさい。そうすれば特別にチュネープ公爵の爵位をあげても良いわよ。領地はこの宮廷全部よ。悪くないと思わない?」  姫はそっと手を差し出す。するとチュネープ公爵は姫から逃げるように側の階段を駆け上がる。姫はその姿を前に吐息をもらす。なんで皆んな逃げるのよ…… 姫が視線を上げると、チュネープ公爵が自分を見下ろしていた。 「あら、随分と偉そうな態度をとるじゃない。でも良いわよ、私優しいから今すぐに降りて謝ってくれたら赦してあげる。さあ、早く降りてきなさい」  しばらく向かい合って対峙した後、痺れお切らした姫が階段に足をかける。すると、驚いたチュネープ公爵はさらに上へと駆け上がり階段の奥へと姿を隠した。 「ちょっと! せっかく私が赦してあげるって言ってるのに、それを無視するなんてあんたね…… まったく…… フフッ。良いわよ、絶対に見つけてあげるから」  姫は誰もいないことを密かに確認する。「ちゃんと隠れるのよ」一言呟き、姫は陽気な態度で暗闇の中を駆け上がる。 「あら、随分と隠れるのが上手いのね。暗くて良く見えないのもあるだろうけど……」  姫は壁にかけられたランプを手に取る。しかし、その視線はある一室の扉に止まる。僅かに開いた扉、その隙間から差し込む光に導かれる様に足を運ぶ。 「もうっ、勝手に人の部屋に入ったりしたら駄目よ。怒らないから早く出てきなさい。知ってる? 私、怒ると凄く怖いのよ。いい? 誰の部屋かも分からないのに勝手に入ったりしたら……」  扉を押す姫の手が自然と止まる。あれ…… 誰の部屋だろう…… 見たことのない家具、棚に並べられた無数の書籍、それほど大きくないベッド、無数の書類が散乱する机、ニつほどのランプで物足りてしまう程度の広さの部屋。この宮廷内に相応しくない作りをしている様に見える。今思えば、この階に上がったのは初めてかもしれない。 「そう言えば、オルディボにこの階には行くなって小さい頃からやたら念を押されていた様な気がするわね。はぁ、またバレたら面倒なことになりそうね。ねぇチュチュ、私はもう戻るけど貴方はどうするの? 私に捕まるなら今のうちよ。言っておくけど、この宮廷の人達は貴方を見つけたら、すぐに殺しちゃうからね。私だけよ、こんなに優しいの。少しは信用してほしいわ。それにこんな物置みたいな所にいたって何も……」  姫の視線が、まるで何かに吸い寄せられたかの如く一冊の本に向く。机の上に散乱された、その本はどこか異質な空気を醸し出していた。 「何かしら…… チュチュ、私はこれをちょっと見たら帰るから、勝手にどこか行ったりしないでよね? もう会えなくなるかもしれないから」  姫は、そっと持っていたランプを置き、散乱した本の一冊に手を伸ばす。雑な扱われ方をしていたようだが最近まで使われていた痕跡がある。辺りを警戒しながら読み進めてみると、それが我がディグニス帝国の成果を書き記した書物であることに気がつく。 「五月二日、帝国議会はヌーク王国への宣戦布告を決議。翌日、正式に戦線布告を実施。同月十日までに王都を掌握。翌月一日我がディグニス帝国への併合を宣言。旧王家をハンブル侯爵家へと変更。その他貴族の安否は問わない。帝国に対する反抗勢力は皆殺……」  文の最後には達成したとばかりに大きくレ点が付いていた。誰が見ても一方的な侵略行為に過ぎない。ヌーク王国が長らく友好国であったことからも、それが知れる。しかし、読み進める姫の表情はどこか誇らし気だった。  頁を捲るにつれレ点印はすっかり無くなった。それもそのはず、先の頁にはこれから達成するであろう未来の予定が書き記されている。
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