一章 影の病

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「そう言えば、教皇のおじさんが、わざわざ皇居にまで来るのなんて何年振りかしらね。いつもなら、近場のミラノ家の所に抗議しに行くはずなのに。やっとボケがまわってきたのかしら…… もう、しゃべって良いわよ」 「ありがとうございます。しかし、それに関しましては私にも何とも検討がつきません。数年前に来た時と比べると、付き人の数も増えているように見えましたし」  言われてみれば、そうかもしれない…… 「リアナ皇女?」  誰かが、そう呟いた。女の声だ。良く見れば、一人のメイド服の女が庭の手入れでもしていたのか、一人地面と向かい合っていた。メイドはこちらに気づくや否や、慌てた様子で姿勢を正す。 「アロッサ? 貴方、こんな所で何してるの? 今は部屋で待機しているようにと言ったはずだけど」 「す、す、す、すみませんリアナ皇女。ただ、その、私にも良く分からないのですが。部屋に戻るとすぐ、ミリアさんに出て行くようにと言われて…… 何でも、部屋の掃除をするから、それが終わるまでは入ってはいけないと言われてしまいまして……」  アロッサは何度も何度も頭を下げ、今にも泣き出しそうな態度で応えた。 「それで、やることも無いからここに……」 「すみません、すみません、すみません……」  アロッサは未だしつこく頭を下げる。多分、何ら粗相のないようにしているつもりなのだけれど、かえってイライラしてしまう。 「ほぉ。今日は良くメイド達が働きますね。実は、早朝にもミリアから私の部屋を後で、掃除しに行くと言われましたし。まだ、大掃除の時期では無かったと思うのですが」  男が言った。妙な話だ。もし、お父様の目的が、あの本を見つけ出すことだとしたら私の部屋にだけ探りを入れれば良いはず…… いや、そもそもお父様はまだ私が本当にあの本を持っているか疑ってる…… 「ちょうど、今ビアンカ達が姫様の部屋を掃除しに来ていたので私達は散歩でもして時間潰そうかと」 「なるほど…… そうみたいですね」  仮に違ったとしても、一つ納得がいく。  もし、私の部屋にだけ探りを入れて他の部屋は音沙汰なしとなれば、周りの使用人や役人達に、あの部屋には何かあるのではないかと怪しまれてしまう。それを防ぐ為にわざわざ全ての部屋を掃除させて回らせるなんて、良く考えたものだと思う。でも、もう遅い。  私の部屋には、もう既に目的の物は無くなっている。今さら、全ての部屋を掃除させたところで何も…… 何も…… 全ての部屋?  姫は徐に、自身の部屋の一つ下の階に目をやった。 「ねえ、オルディボ。なんで、私の部屋の下の窓って空いてるの?」  姫は素朴な疑問を投げかける。そうだ。何で私、何も疑問に思わなかったんだろう。もうダメだと思った、あの時。窓から、本を投げ捨ててしまおうと思ったあの時。ふと、下の部屋の窓が空いているのが見えた。  このまま、投げ捨てて誰かに見つかるリスクを考えたら。この下の部屋は長らく誰も使っていない空き部屋だから、すぐにはみつからないはず。例え、見つかっても誰も私のだとは考えもしない。そう思えた。  ねぇ、なら教えてよ私。いったい、あの窓は誰が開けたの? 「姫様! また、何か考え事ですか? そろそろ掃除も終わる頃だと思いますので、部屋の方に戻られてはと思うのですが」  そんな男の声など届くはずなく、姫は顔を真っ青にした。投げ入れる瞬間を見られた!  姫は無我夢中に走った。来た道を遡るように、護衛の静止も聞かないままに門前へと向かう。途中まで尾行していた護衛が半ば強引に姫の腕を掴む。 「急にどうされたのですか? 見失う恐れがあるので急に走り出さないで下さい!」 「ごめんない。その…… ちょっと……」  男は、じっと姫を見つめた。そうだ。こんなに急いで、どうするつもりなの?   本を回収しに行ったとして、それをオルディボに見られたら何も意味がない。姫は冷静さを取り戻すと、そっと掴まれていた手を振り解いた。 「トイレ…… トイレ……」  姫は顔を赤く染めた。何か言いづらいのか、モジモジと落ち着かない。 「えっ? 普通にそこら辺の茂みにでもすれば良いじゃないですか。別に誰も見ませんから…… あっ、す、すいません…… かっ、かっ、開門ッ! 姫様のお通りだ。急いで門を開けろ!」  男は態度を一変。門前に待ち構える兵士達に必死に呼びかける。  その間、姫は男の表情を、ただ蔑視するかのように蔑んだ目で直視する。しばらくすると、いつになく素早く門が開かれる。姫は、すぐさま、通路の一角に設置された個室のトイレに走る。個室に入るとそこには便器が一つ、換気のための窓が一つだけあった。 「姫様、扉の前で待機しておりますので、何かありましたらすぐにお呼び下さい」 「分かったから。少し黙ってて」  扉越しに姫が応える。 「そうだ。また、何か必要な物がありましたら、お声がけください。直ぐに持って参ります」 「ねぇ、私、今トイレにいるんだけど。貴方の声を聞いてたら出るものも出なくなるから、本当にちょっと黙っててくれない?」  "トンッ トトンッ"  個室の扉が叩かれた。ちなみに、今のは「分かりました」という隠語だ。別に隠語なら良いとか無いんだけど……  姫は、ため息を一つ付く。そっと便器の上に足を乗せ、上部に付けられた窓に手を伸ばし、鍵に手をかける。
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