一章 影の病

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 そっと部屋の扉が開かれた。 「これはこれは、ポトラフ聖下。お会い出来て光栄です。直接屋敷に招かれるのは何年振りでしょう。ただ突然のことに、こちらも会談の準備が遅れております。まずは紅茶でも飲まれてはいかがですかな」 「要らぬ」  老人は言った。老人は全身に白いコートを身に纏い長い髭を生やしている。一件、弱々しくも見えるが、その声は威厳に満ちていた。目の前の脅威に一切動じる素振りを見せず。それどころか、かえってこちらが脅威であるかの様に他方を睨みつける。 「いつまで、そうしているつもりなのだサリエフ。さっさと座れば良かろう。それとも、椅子の引き方すら忘れたのではあるまいな」  教皇は皇帝に嫌味でも言うかのように畳み掛けた。裏に似た服装をした護衛を何人も抱えているせいか教皇は余裕のある表情をみせる。 「おっと、これは失礼。老人方はせっかちだというのを、すっかり忘れておりました。残された僅かな時間。無駄にしては失礼だ」  そう言うと、皇帝は自力で話の席に着いた。 「ほう…… しばらく会わない内に、嫌味が言えるようになったのだな。まったく、そっくりに育ったものだ……」 「とこで要件は何でしょう? 私もそれほど、時間を取れるわけではありませんので、出来れば手短に済ましていただきたい」  皇帝は話をすり替えるように応える。僅か二メートルほどの机を挟み互いが互いを睨み合う。 「良かろう。ワシも、こんな所に長居する気などはなからないのでな。単刀直入に言おう。皇帝サリエフよ。これに、お主のサインを頂きに来た」  教皇は、懐から一枚の皮紙を取り出すと机の上に置いた。 「これは?」 「見てわからんか? 法案じゃ。既に議会は通しておる。後はお主の著名をもって採決される。期限は本日未明。もっとも、お主に拒否権などあるまいがな。ワシの忠告を何度も何度も無視したのだ。当然の結果だ。ワシらも、採決されたことを前提に話を進めさせてもらう。異論はあるかね?」  皇帝は頬杖を突くと、机に置かれた皮紙を手に取る。終始無言のまま文を眺める。 「はぁ…… 宣戦布告の要件を『議会への事前報告』から『議会の承認』へと変更か……。随分と思い切った判断だ。良くもこんな法案が議会を通れたものだな」 「お主の感想など聞いておらん。異論が無いのであればワシらは帰らせてもらう。もっとも、あったとしても効き入れるつもりは無いがな。余り待たせては信者達が心配する。ではな、皇帝陛下……」  教皇はそう言うと、席を立った。 「教皇聖下。まさか、こんな紙ひとつ届ける為に、わざわざお越しになったのですか。こんなもの、使者を使えば良いだけは? それとも、他に何か?」  皇帝は教皇を見上げるように鋭い目つきで応えた。 「ああ。そうじゃった、そうじゃった。あまりに興味のない事ゆえに、すっかり忘れとったわ。皇帝サリエフよ、お主に報告がある。二日前の日没、プルーフ地域を治めていた領主ミラノ・マルオックが…… 暗殺された。お主でいうところの義理の兄だったか?」  皇帝は言葉に反応するかの如く、眉を動かした。 「何を今更、白々しい。ワシをお主らのくだらん権力争いに巻き込むな。ワシからすれば誰が皇帝になろうと知ったことではない。ただ、まあ一つだけ朗報がある。いや、お主にとってはそうではないかもしれんがな」  教皇は嫌味を言うかのように応える。 「今回のミラノ家暗殺事件。どうやら、一人だけ生き残りがいたようでな。ただ、その者は領主としては若すぎるゆえ、領地は別の物に任せワシが引き取ってやろうと、思ったのだが…… どうにも、ここに来たいと言うのでな。連れてきた。お主の親戚だ。構わんだろ。丁度、ワシの部屋がある。どうせ、今日は泊まる気などない。使わせてはやれんかな」  皇帝は、持っていた皮紙を机に置くと、僅かに口を開けた。 「その、生き残った者の名は?」  教皇は天井を見上げ考え込む。 「確か…………」    ——「ミーシャ……」  姫は僅かに呟いた。 「お久しぶりです、お姉様。こんな所で何をされているんですか? 今は護衛の方と一緒に散歩に出ているとお聞きしましたが……」  姫より、何センチか小さな体型。頭には、野生動物の耳を模したかのような二つの団子結びをした髪型。皇后と同じく煌びやかなドレスに包まれた、ご令嬢。名前はミラノ・ミーシャ。姫の従姉妹にあたる。 「それは……  いやいや。こっちのセリフよ! なんでアンタがウチの屋敷にいるわけ? いつからいたの? 来るなら来るって事前に言ってほしかったんだけど?」  姫は、ご令嬢に詰め寄るように畳み掛ける。 「そんなこと言われましても、いきなりの事でミーシャも大変だったんですよ? 朝起きたら、移動するーー なんて言われて、手紙を送る暇なんて無かったですよ。だから今渡しますね。はいコレ」  ご令嬢は、悪びれる様子もなく隠し持っていた手紙を姫に手渡す。 「だから何で、いつも手渡しなのよ。で、今日は何しに来たの? 大体アンタ、いつも勝手に来ては問題ばっかり起こして……」  ふと、姫の視線が下がる。良く見ると、ご令嬢は何かを大事そうに懐に抱えていた。それは、埃をかぶっている。厚みがあり、しっかりしていた。良く、見覚えがある。姫は徐々に顔を青ざめた。 「ミーシャ…… アンタ、それどこで拾ったの?」 「あーー。この本ですか? そうそう。会ったら話そうと思ってたんです。実はこの本、ミーシャが部屋に入った途端いきなり上から降ってきたんですよ。まだ、中身は見てないんですけど、なんだか運命感じちゃって一応大事に持ってるんです」  ご令嬢は嬉しそうに応えた。 「どうかしましたか? 顔色が悪いですよ?」 「ねぇ…… アンタ。今、部屋の外から入って来なかった? まさか…… まさかとは思うけど、その本を持ったまま屋敷内を徘徊してたんじゃないわよね……」 「えっ? ダメなんですか? ちょっとトイレに行って来ただけですよ? それとも、お姉様は、この本について何かご存知なんですか?」  ご令嬢は純粋な疑問を投げかけた。一瞬、何かを言おうとすが、躊躇うと僅かに間を開け姫は再び口を開く。
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