一球の魔物

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 甲子園往きの切符をかけた県大会の決勝戦。  九回裏ツーアウト、一点差で走者一、二塁という、どちらに転ぶか予断を許さない手に汗を握る場面だった。  「あと一人」と、敵も味方も各々に結末を夢想する。  守備側の錦城(きんじょう)高校は、手堅くアウトを取れれば甲子園。他方、相手にとっても、タイムリー一本で同点、当たりによっては逆転勝ちすら狙えるという、観るもの誰もが気の抜けない状況だった。  カウントはツーボールツーストライク。最後の打者を追い込んだ一年生エース一ノ瀬(いちのせ)は、捕手の指示通りに腕を振る。しかし、空振り三振を企図したその一球、得意のチェンジアップはすっぽ抜けて、ただのスローボールになっていた。背筋を冷たいものが走る。  プロならば万事休すという一瞬、だが、相手も高校生だった。最悪の失投を、不調続きの六番打者はアッパースイングで見事に打ち上げてしまった。  勢いのない打球は山なりに飛んでいく。外野左翼の定位置へ向かって。  ベンチもスタンドも内野陣も、錦城高校の関係者は一様に期待を込めた目で打球を追い、顏を緩ませた。他方、相手の走者は万が一の落球にすがって無我夢中に走った。  その時、アルプスから外野へと一陣の突風が吹き抜けた。どこぞの山おろしかというような、信じられない程に強い風だった。  完璧な目測で白球を迎えていたレフトの信濃(しなの)は、ボールがちょうど天に吸い込まれたところで風に煽られ、軌道が大きく変ったのを捕捉できなかった。  気付けば、打球は頭上を数メートル飛び越していて、全身を凍り付かせるような寒気と共に、翻った体は、見事に足をもつれさせてしまっていた。  ようやく捕球した時には、すでに一人の走者がホームに帰っていた。同点だ。さらに次の走者、相手チーム一の俊足選手は三塁ベースを周っていた。  しかし信濃の肩にはレーザービームなど搭載されていない。中継のサードへ懸命の返球。それが動揺からワンバウンドに。サードが捕球して振り向いた時、スタンドの逆側から大歓声が上がっていた。  九回裏、逆転サヨナラ負け。悲願の甲子園まであと一球というところで、ナインたちの夏が終わった……。  悪夢の夏が明けて、季節はあっという間に晩秋を迎える。  甲子園の夢を打ち砕いた戦犯・信濃は、進路の最終決定という三者面談を自宅で迎えていた。  担任の溝口は、信濃の出席日数を嘆いていた。なにしろあの試合以降、信濃は一度も登校していない。定期テストも補習も受けず、もはや予断を許さない状況だった。 「なぁお前、このままだと卒業できひんぞ?」 「……」 「孝弘、返事くらいしなさい」  溝口も、あの日、グラウンドに応援に来ていた。だから、知っている。あの落球は信濃のせいではなかったのだと。誰が信濃一人を責められるというのか。  どんな憑き物の仕業か知れぬ、怨霊めいた突風が、甲子園に来るにはまだ早いとナインを拒んだのだと、溝口はあの場面をそのように公正に振り返っている。  そうしてあの時以来、自室に引きこもり、まったく登校しなくなった信濃をどうにも励ましてやれずにいる自身を不甲斐なく思っている。  ソファに浅く腰を掛け、ぼうっと天井を見上げる信濃の目には、現実世界など映っていない様に見えた。いまだあの一球を、一打の白球を追っている。悪夢として過ぎ去ったものを、照りやまぬ夏の日差しとともに、希望として抱え、その白昼夢に浸っているかのようだった。 「信濃……まだこっち側に戻ってくるのがきついんだったら、無理して学校こんでええ。もっぺん、三年生やり直したってええんや」 「ちょ、先生!?」  担任の暴言に、信濃の母は腰をあげて遮ろうとした。だが、溝口は続けた。いまはただ、目の前に虚脱する生徒の気持ちに寄り添ってやらなければと。 「幸い、うちは卒業さえできれば大学に進めるエスカレーター校や。一年くらいの寄り道、人生振り返ればなんてこたない」  溝口はただじっと信濃の定まらない眼球を穿ち続けた。自分はここにいる。お前を見ている。それをしっかり伝えたいと思った。  母はその様子と言葉に、いよいよ事態が抜き差しならぬものになっているのだと諦念し、溝口の言葉の誠意を感じ取った。 「……先生。うちの子、まだ帰ってきてないんです。あの夏から、一歩も動けてないんです。もう、無理、させんでいいんでしょか? 親として、この子の済むようにさせたっていいんですやろか?」  引きこもりの原因は明らかだった。どうしたら心の扉を開いてくれるのか、ハウツー本を読んだり、カウンセラーに相談したりと、出来得ることを出来得るだけ試してきた。……けれど、息子の頭はあの一球を追いかけ続けたままだった。  父親は、ある意味溝口と同じようなことを口にしていた。「好きにさせておけ。時間が癒してくれる。天岩戸(あめのいわと)の神様かて、自分から出てきたやないか」と。  溝口は母親から家庭の状況を聞き取っていた。手前の世間体可愛さに寝た子を無理に起こすような父母ではないと。それで、一つ提案をした。 「最悪、同じ学年に三年間は在籍できます、そんくらいの辛抱強さでいきませんか。自分は担任を外れても、ずっとこの子の教師でいるつもりです。長い目で、やっていきまひょう」 「先生……」 「……」  信濃はそんな大人たちの決断に、なにをどう思ったのだろうか。ただその重圧から解放されたことを悟り、視界がうすぼんやりと滲んで見えるのだった。 **  大学受験がないという恵まれた環境で、錦城高校の生徒たちは今日も白球を追う。三年生が引退して新体制となった時、二年生主将の八村(はちむら)は、あの試合について一言も口にしなかった。  皆が陰で「信濃先輩の失策」で片付けようとしていたが、八村はそこに加担しなかった。あの試合、八村はセンターを守っていた。だから、あれが最悪の運を引いてしまった不幸だったという事実を彼以上に理解している者はいなかったのだ。  だが、信濃を庇えば、責任の矛先はすっぽぬけの失投をしたエース一ノ瀬に向けられるだろう。スポーツ特待制度のない本校で、万に一つの拾いものという程に、一ノ瀬の資質はずば抜けていた。  だが、一ノ瀬は大学受験のない道を最適と選んだ。単なる野球好きという天賦の才だったのだ。他のナインにしても、甲子園など夢のまた夢。指導者もついていない素人集団だった。  それが、甲子園まで一歩というところに手が届いてしまった。無欲が故の快進撃。だがそれも、あの大会で「強欲」に絡めとられてしまっていた。  しかし高校野球という壁は、浅慮を見事に粉々に打ち砕いてしまう。秋季大会、シード権獲得で迎えた二回戦。一ノ瀬の好投虚しく打線は沈黙し、内野の三失策での自滅。暗澹たる結果を残した。しょせんはなんの覚悟も根性もないエース頼みのチーム作り。その現実が露呈するばかりだった。  そんなナインだったが、定期テストの部活休止期間に、キャプテン八村はとんでもない爆弾を抱える事になった。エース一ノ瀬に校外で会いたいと呼び出され、「退部届」を渡されたのだ。 「なんでや!? そりゃうちのバックはしょうもない状態や。けど、なんとか練習メニュー考えて、せめて内野陣だけでも――」 「そんなんちゃいます……」  マクドの二階でしなっとしたポテトを口に入れながら、一ノ瀬は気が抜けた面持ちで主将の抗弁を退けた。八村はもうどうしたらいいものか、まずは、うちのエースがなにを考えているのかを吐き出させようと水を向けた。 「みんな、なんで自分のこと、責めないんですか」 「……うっ」  なんのことか、八村にはすぐに理解された。あの夏の一球だ。エースの自分を持ち上げて、信濃一人をスケープゴートに仕立てて総括した。秋季大会で実力のなさをさらけ出したいまになっても、八村はただ黙認するだけだった。  あの件について、誰も一ノ瀬を追求する者はいなかった。八村は胃がキリキリと痛む思いがした。キャプテンとして、部員全員とちゃんと向き合ってこなかった。それこそ、最悪の失策だったのだと突きつけられたのだ。 「自分、帽子飛びましてん。そんくらいな強風でしたやん? 身が凍りましたわ。振り返ったら、信濃さん足もつれはって……。そもそも、誰が悪い言うたら自分のすっぽ抜けですやん。相手は毎年ベスト4に残る強豪校ですよ。強打されてきれいに負けてたん違いますか……。自分、そういう夢、よく見てるんです」 「……悪い。お前のメンタルまでよう気付かんくて」  八村は一ノ瀬の告白に息を飲んだ。朴訥として何を考えているのかわからないところはあったが、それは強心臓だと思い込んでいた。とんでもない誤解だった。信濃だけではない、一人チームの命運を託されたエースも、あの一球をずっと抱え込み、苦しみ続けてきたのだ。それを誰にも打ち明けられずに、ここまで自身を追い込んでいたのだ。  なんとか、いまからでも話し合いたいと思った。捕手を交えて、あの最後の一球はまだ終わっていないのだと、ちゃんと総括しておかなくてはと考えた。だが、一ノ瀬は目を伏せて首をぶるぶると横に振った。 「信濃さん、打率も打点も、チーム一番でしたやん。準決でサヨナラ決めたのも信濃さんの一振りでしたやん。……知ってますよね。信濃さん、いま学校来られなくなってるって。……なのに、なんでみんな放っておくんですか」  一ノ瀬は眉を八の字にして、いまにも泣き出しそうな顔を見せた。八村はちらと窓を見やった。そこにあるのは薄く透過した鏡像のみだった。どこまでも自分自身が向き合う問題であると直面させられて、深く嘆息した。 「ぶっちゃけ、なんも言い返せん。俺もみんなもお前頼りや。御機嫌伺いしとるんや。……信濃さん悪者にしとけば丸く治まる。俺、自分は陰口加わらんからセーフとか、線引いてただけなんや。ほんま、情けないわぁ」 「せやったらぁ!」  一ノ瀬は音を立てて立ち上がり、きっと主将を睨みつけた。 「いまからやって遅ぅないやないですか。自分、聞いてまったんです。信濃さん、このままだと出席足らんで卒業できひんて。そんなん、間違ってる。自分がのうのうと球放ってるのに、先輩がダブりで居場所ないとか、そんなん、自分……自分、きっついですわ、キャプテン」 「信濃さんがダブり!?」  突如聞かされた留年という言葉に、八村はさーっと血の気が引く思いがした。部内でのガス抜きどころではない。あの失策、自分が味わうかもしれなかった悪夢。――その結果に、自分も加担してるに等しいのだと、ようやく信濃の迎えている窮地に地に足がつく思いがするのだった。 **  翌週から、錦城高校野球部は新たな試みを始めた。バッティング練習時に打者のフォームをビデオ撮影するというものだった。 「うちは夏も秋も内角攻めに苦しんだ。まともに内野越せるバッティングできな、甲子園行けへん」  主将・八村の説明に、「そったらビデオの分析とか改善点とか、誰がしてくれるんや」と当然の疑問が上がった。  八村は「問題ない。自分の縁故あるOBの方が見てくれはる」とチームの不安に答えた。      ◇◇◇◇◇  溝口教諭は、その日も信濃の家を訪ねた。ドアの隙間から日付を書いた一枚の封筒を差し入れ、五分ほど一人芝居の様に語り掛ける。応答はなくとも、聞いているという確信があった。  すっと、封筒が押し出される。前回の日付のものだった。SDカードの他に、何枚ものレポート用紙で厚くなっていた。週に二度、そうして溝口と信濃の交換日記めいたやり取りが行われるようになっていた。  時が過ぎるのは早く、世間は元旦を迎える。東向きの信濃の部屋。厚く引かれたカーテンが、数カ月ぶりに開帳した。まばゆいばかりのご来光が、部屋の陰気を一瞬で取り払うかのようだった。 「ちょ、あんた……」  おせちにお雑煮と新春の準備をしていた母親は、息子がバットを持って庭に出て行くのを驚きをもって迎えた。  すっかり白くなった肌。一回り細くなった体が、引きこもり生活の長さを物語っていた。だが――その目には光が宿っていた。  ……ブン! ……ブン! ……ブン!  一心不乱に金属バットを振る息子に、母はなんと声を掛けていいのかわからず、胸元をきゅっと掴むばかりだった。あくびをしながら降りてきた父親は、どっこいしょとソファに腰を下ろして、リモコンを手繰りながら何でもないというように言った。 「手力男神(たぢからおのみこと)でも天鈿女命(あめのうずめのみこと)でもない。あいつの岩戸を開くんは、野球以外になかったちゅうことや」  信濃は夢中でバットを振り続けた。やがてぴたりと動きを止めると、腹の辺りを押えて居間に上がって来た。 「雑煮、お食べ」 「ん……」  信濃はなにか言いかけたが、父親がゆっくりと頷くのを見て、照れくさそうに食卓に着いた。  その日から、信濃は週に何度か、自転車で出かけるようになった。たいてい、二時間ほどで戻って来る。相変わらず登校はしない。ただ、部屋は開かれていた。  庭での素振りと、ティーバッティング。朝晩とランニングもして、精力的に体を動かしていた。それが信濃の日課となっていた。  息子の行動が変わった理由。どこでなにをしているのか、母親は詮索をしなかった。ただ、なまった体に精がつくようにと滋養ある温かい食事を用意するのみだった。 **  卒業式の前夜。信濃は両親に話があると改まった。短く刈った頭をぼりぼりと掻きながら、 「怖いんや、いまでも」と切り出した。二人は黙って続きを待った。  信濃は天井に左手を伸ばした。 「あん時の光景や。自分の頭通り過ぎてく白球の夢を、いまでも見るんや。しんどいんや。グラウンドに近づくこと考えるだけで、足ががたがた震えるんや。みんなが俺の頭を通り越して、俺なんか知らへんて行ってまう。そういうな、阿保らしい幻を長いこと見てたんや」 「……ほな、いまはどうなんや」  父親は家の中では吸わないと決めてあったタバコに手を伸ばしていた。家長の指先はなんとも知れぬ感情で少し震えていた。  信濃はまっすぐに父母に向かい合い、それぞれの顔をじっと見つめてから言った。 「グラウンドに立つんは、たぶん、もう無理や」 「そか。野球の他にお前のやりたいことやれば――」 「ちゃうんや」  励まそうとした父親の言葉を、信濃は遮った。 「あんな、二人にお願いがあるんや。いや、お願いします」  信濃は膝に頭がつくほどに頭を深く下げて、この先どう過ごしたいのかを話し始めた。 **  錦城高校は卒業式を迎えた。毎年の恒例で、卒業生はグラウンドを訪れた。  甲子園を目前に引退した六人は、下級生の列の中に異物を見出した。 「お前……どないしたん」  前主将は驚愕の声を挙げた。列の端にいたのは、本来、一緒に卒業するはずの信濃だった。  現主将の八村が一歩前に出て答えた。 「はい、信濃さんには野球部に残っていただくことになりました」 「はぁ!? 信濃、お前高野連(こうやれん)の規則知っとるやろ。四年目のお前はもう試合には――」 「コーチや」  信濃ははっきりとした声音で答えた。 「はぁ?」 「せやから、来年のこの日、ここを卒業するその日まで、俺はこのチームのコーチをやることに決めたんや。――去年の暮れからな、こいつらのバッティングフォーム、映像で分析したり、バッティングセンターで個別指導しとったんや」  その言葉に、同期の三年生たち全員が言葉を失った。おそらく練習試合にすら出してもらえないだろう環境で、留年した同級生がコーチをする……。  自分たちは大学に進んでそれぞれの学部でキャンパスライフをエンジョイしようという身だ。それなのに、ただ一人、信濃だけが幽霊のように野球部に居残るという。  ――あの一球や……。  前主将は、気付いた。気付いてしまった。他の者もみな、信濃の晴れやかな高校球児然とした笑顔に、半年もの時間を巻き戻された。  もともと熱心に部活をやっていた訳ではなかった。ところがその三年目に一ノ瀬という逸材を得て、運よく甲子園の手前まで来てしまった。  信濃の失策についても、そもそも夢物語だったのだと早々にあきらめをつけて、こだわりなく部活を巣立って行った。信濃の登校拒否を知ってはいたが、なんとかしようといった動きもなく、本人の勝手だろうというくらいに片付けてしまっていた。  だから、いまになって気付いたのだ。信濃を恨むところが残っていたということに。  降って湧いた好機を不意にした男。  けれど、それを責めるほど自分たちは野球に真剣に取り組んでこなかった。そして、信濃は気のいい仲間だった。そういった、なんとも中途半端な想いが交錯したものが、自分たちの本音だったのだと。  信濃は帽子を脱ぎ、ゆっくりと深くお辞儀をした。 「あの一球は、公式記録通り、俺の失策やった。お前らの夢をつぶしてすまんかった。せやから一年、禊をする。それで、堪忍してや」  信濃の声は、まるで新一年生が入部の挨拶をするかのように爽やかであった。卒業生たちはみるみるうちに顔を歪ませ、鼻をすすりながら唇をかみしめた。 「やめや……。俺たち……かっこ悪すぎやろ」 「そうや、謝んのは俺らの方やて」 「ほんまや。自分ら、あほや。ほんまもんのあほや」 「……俺ら三年で話し合うべきだったんや。お前をあの場所から卒業させなあかんかったんや」 「お前ひとりにこないしんどい思いさせてしもて。堪忍してな」 「もう、頭あげろや。自分らダチやろ」  信濃はゆっくりと頭を上げた。ぼろぼろに泣き崩れた顔を拭うこともせず、一言 「卒業、おめでとうな」と祝辞を送った。 **  新体制の下で発進した錦城高校は、コーチに徹した信濃の下、エース一人に頼らないチームを作っていった。しぶとい打線と堅実な守り。二年生となった一ノ瀬は変化球を増し、上乗せした球威に打者はきりきり舞いだった。  そうして迎えた県予選。錦城高校は一球一球にくらいつく執念で勝ち進んだ。楽な試合はなかった。準決勝をタイブレークの末なんとか勝利したが、一人で投げ続けた一ノ瀬の肩は限界を迎えていた。  決勝戦。制球が定まらず序盤で二失点。変化球主体で三回以降無失点に抑えたものの、打線は沈黙。  このまま終わるかと思われた九回表、ワンアウト。ここで一人の男の心に一年越しの火が付いた。六番・八村だ。主将の長打を下位打線が繋げて、逆転、一点リードというスコアで錦城高校は最後の守りを迎える。  九回裏。一ノ瀬が捕まった。楽に勝たせてはもらえない。それが高校野球。  ツーアウト、ランナー一、二塁。一打逆転のピンチ。  カウントはツーボールツーストライク。    一年前と、そっくりそのままの状況。  グラウンドに立つ全員が、その意味を理解していた。……悪夢の再来を予期せぬ者はいなかったろう。 「なんや、神様はえらい野球好きみたいやな……」  記録員としてベンチ入りしていた信濃は、心の中で覚悟を決めた。規定上、信濃はグラウンドに出る資格はなかった。だが控え選手の背番号付きユニフォームを奪うようにして着替えをし、ベンチを飛び出した。実に一年ぶりのグラウンド入りだった。  マウンドに集まる内野陣に、信濃は策士めいた顔を作った。 「ええこと教えたる……今年はあの風は吹かへん。今度は実力で甲子園行かしたるって、神様が言うてはるのが聴こえたんや」 「「「しゃす!」」」  皆の顔に生気が戻ったのを確認し、身を翻した信濃。そこに彼を引き留める者があった。エースの一ノ瀬だ。 「コーチ」 「なんや」 「自分が甲子園に連れてきますんで」  エースの瞳には、一年前の失投などもう浮かんではいなかった。そして、信濃の脳裏からもきれいに消え失せていた。あれほど恐ろしく感じたグラウンドは、心地よいばかりに自分を迎えてくれていた。 「あほ、俺を運ぶんは新幹線や。せやけど……今度こそ卒業しよや、この場所から」 「しゃす!」  一ノ瀬はぐいと目深に帽子をかぶった。自然と笑みがこぼれ、肩がすっと軽くなるのを感じた。  次の一球。この日、最高速度を記録した渾身のストレートが、キャッチャーのミットに吸い込まれた。 【完】
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加