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「桜なんて、咲かなければいい」
隣でそう呟いたのは、十年来の親友だった。
丘の上に鎮座する一本の桜の木。
小さな蕾達が芽吹く頃ももう目前に迫るのに、彼女はいつも突拍子もないことを言う。
「なぜ? 毎年ここでする花見を一番楽しみにしていたのは、君じゃないか」
花弁が舞い踊るこの丘の上で、二人きりの花見。
これは幼い頃から変わらない僕達の春の風物詩だった。目の前では、風にそよぐ制服のスカートの裾ですら不機嫌そうにはためいている。
振り返りもせずに、彼女は言った。
「私は、桜なんて大嫌いだもん」
「……。一番好きなのは桜の花だって言っていたのは、誰だったかな?」
「ふん。女心は移ろいやすいのよ」
「なるほどなぁ」
小さな僕のため息が、一つ零れる。
彼女は、相変わらず振り返らなかった。
*
「蕾なんて、全部落ちればいい」
隣で、今日も呟く声がする。
丘の上に鎮座する一本の桜の木。
その下に同じく鎮座する僕の親友。
小さな蕾達はいよいよ芽吹く体勢に入っているというのに、彼女は変わらず突拍子もないことを言う。
「なぜ? 毎年蕾達が雨で落ちないように、大切に見守っていたのは君じゃないか」
花弁が花開く時を待ち侘びた、二人きりの時間。
これも、幼い頃から変わらない僕達の春の風物詩だった。目の前では、風にそよぐ制服のスカートの裾ですら、今日も不機嫌そうにはためいている。
またもや振り返りもせずに、彼女は言った。
「今は花が咲かないように見守ってるのよ」
「……。早く咲いてねって、毎年言ってたのは誰だったかな?」
「ふん。女心は移ろいやすいのよ」
「なるほどなぁ」
大きな僕のため息が、一つ零れる。
彼女は、相変わらず振り返らなかった。
**
「季節なんて、冬のままでいい」
隣で、今日も今日とて呟く声がする。
丘の上に鎮座する一本の桜の木。
その下に同じく鎮座する僕の親友。
そして、その隣で同じく鎮座するしかない僕。
冬なんてとうに過ぎ去り、本日ついに今年最高気温を叩き出したというのに、彼女はますます突拍子もないことを言う。
「なぜ? 毎年寒いのは苦手だからって、春を恋しがっていたのは君じゃないか」
寒がりな君と待ち侘びる、暖かな春。
これも、幼い頃から変わらない僕達の春の風物詩だった。いつもなら風にそよぐ制服のスカートの裾は、今日は固く握られていた。
けれども、やはり彼女は振り返らない。
「寒さなんて克服したのよ」
「……。今年は特に冷えるって文句を言っていたのは、誰だったかな?」
「ふん。女心は移ろいやすいのよ」
「なるほどなぁ」
もう僕のため息は、零れない。
だってー……、
スカートの裾を握る君の手が、震えていることに気がついたんだ。
***
「咲いたね」
その日は、ついに訪れる。
隣でそう呟いたのは、僕だった。
丘の上に鎮座する一本の桜の木。
小さな蕾達は満開に芽吹き、いつもなら突拍子もないことを言う彼女は黙っていた。
その手に握られていたのは、卒業証書。
花弁が舞い踊るこの丘の上で、二人きりの花見。
幼い頃から変わらない僕達の春の風物詩は、僕達の姿だけを成長させていた。
目の前で風にそよぐ制服のスカートの裾も、今日で見納めとなる。
「僕は、こうして花見ができて嬉しいよ」
しかし、彼女は首を振った。
「どうして、春になっちゃったの?」
「女心と同じで、季節は移ろうものだからだよ」
「どうして、蕾は落ちなかったの?」
「君が毎日見守っていたおかげだよ」
「どうして、咲いてしまったの?」
「……どうして咲いてほしくなかったの?」
疑問がひとつ、僕の口からまろび出る。
長い髪が春風に靡き、ようやく彼女は振り返った。
「だって、桜が咲いたら……」
僕のため息の代わりに、零れたのはー……
「あなたが東京へ行ってしまうから」
彼女の瞳から溢れ出した、涙だった。
澄んだ涙はとめどなく零れ落ち、舞い踊る花弁が彼女を隠すかのように儚く散ってゆく。
僕は、強く、抱きしめた。
十年来の幼馴染を。
大切な、親友を。
愛おしい、僕の想い人をー……。
「だから、桜なんて……」
きらい。
けれど、そんな言葉はもう紡がせない。
君が桜を嫌いになった理由を、ようやく知ることができたから。
それならば、重なる唇で、もう一度君が桜を好きになる魔法をかけよう。
「来年も、再来年も、パパになっても、ママになっても、おじいちゃんになっても、おばあちゃんになっても……、ずっと僕の隣で桜をみませんか?」
それは、一世一代の愛の告白。
さぁ、頬を桜色に染めた君の答えはー……?
【おわり】
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