ひとひとりがごはんになるまで

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 そこからの海瀬は、記憶が何もかも曖昧だ。  警察の調べが入るも、憔悴した海瀬はまともに受け答えができなかった。しかし、たまたま紬が飛び降りようとしたところを新聞配達員が目撃していた。 新聞配達員の証言と紬の家族が味覚障害になってからの紬の生活事情などの話を伝えた結果、警察は紬の自殺と結論付ける。  紬の両親と紬の妹である麦歌と海瀬は顔を合わせたが、海瀬は床に額を擦りつけるように謝り続けた。 「すみません、俺の、俺のせいで、娘さんを……本当に、本当にすみません……」 「違うのよ、海瀬くん……違うの……」  紬の母は涙ながらに海瀬が謝ることを否定した。紬の父は黙ったままだったが、海瀬を責めることは一度もなかった。麦歌はずっと、幼子のように母親にしがみついたまま泣きじゃくっていた。  葬式の連絡も来たが、どのツラを下げて線香をあげに行けばいいのだろう、と海瀬は悩んだ。しかし、いっそ葬式会場で、紬の死を悼む人たちの悲しみや嘆きを罵りとして自分にぶつけてもらえるならそれはそれでいいと思った。  喪服に袖を通し、海瀬は北海道の葬式会場へと向かった。高校時代の同級生たちは、海瀬を見た瞬間赤くしていた目尻に、さらにじわりと涙を溜める。 「痩せたね、海瀬……」 「あ、うん……」  誰も海瀬を罵りはしなかった。それどころか、海瀬を労わるような声まであった。 「どうして傍にいながら!」  と、誰か一人くらい怒鳴ってくれればよかった。  しかしそれも、ただ自分が許されたいだけなのでは、と海瀬は気付いて愕然とする。結局、自分のことしか考えていない。だから、紬の気持ちに本当の意味で寄り添うこともできなかったのだろう、と絶望した。  そんな海瀬に追い打ちをかけたのが、葬式の最後に声をかけてきた麦歌だ。 「海瀬さんは、生きてくださいね」  その言葉は、海瀬にとって呪いだった。罰されもせず、死んで償うことも許されず、紬がいなくなった人生をのうのうと歩いていくしかない。  麦歌の言葉を遂行することが、せめてもの償い。死なずに、生きていく。  そう自分に言い聞かせながら、海瀬は歯を食いしばるように生きてきた。生きるためだけに目の前の仕事に打ち込んだ。船曳から声をかけられなければ昼食を忘れてしまうこともままあった。  自然とおざなりになっていく食生活で、ある日海瀬は違和感に気付く。 「味が、しない……?」  キッチンへ行って、片っ端から調味料を舐めた。しかし、やはり味がしない。賞味期限の切れた豆板醤にさえ何も感じなくて、乾いた笑いが漏れる。 「そっか……こんな、こんな気持ちだったんだな。紬……」  美味しかったと思えたはずのものに、何も感じない。それどころか、食感だけは残って不快感さえある。固形物から徐々にゼリー飲料しか口にしなくなった紬の気持ちが、海瀬はようやく分かった気がした。  もっと早くこうなっていれば、そうしたら本当の意味で寄り添えたかもしれない。そんな後悔に押し潰されるように、海瀬はその場に蹲った。  紬が亡くなって一年が経とうとした時、海瀬の元へ麦歌から連絡があった。 『姉の一周忌なので、うちに線香をあげに来ませんか? 渡したいものもあるんです』  電話で告げられ、断ることもできずに海瀬は北海道へのチケットを取ったのだった。  そうして、北海道にやってきた海瀬は萩森家のリビングで、麦歌に皿に乗ったふかふかのロールパンを突き出されていた。 「これは、姉の……紬ねえのパンです」 「紬、の……?」  紬が作ったから、紬のパンというのなら分かる。しかし、紬はもういない。  麦歌の言葉の意味が分からずに、海瀬は怪訝な顔でパンを見つめた。 「堆肥葬って知ってますか? コンポスト葬とも言うそうなんですが」  堆肥葬とは、知名度はまだ低いがアメリカで開発された究極の自然葬と呼ばれるものだ。遺体を容器に入れ、バクテリアなどの微生物の働きによって人間をおよそ三十日間で土に還す。土は肥料として森などに撒くらしい。  世界でもトップの火葬率を誇る日本だが、火葬にかかるエネルギーの負担を鑑み、堆肥葬が法案で可決されたといつかのニュースで見たことを海瀬は思い出す。 「まさか……」 「うちの小麦畑にその堆肥を撒きました。まだ堆肥葬に抵抗のある方がいるので、あくまで自分たち用の畑だけですが、そこで収穫した小麦を混ぜて作ったロールパンです」 「これが、紬……?」  おずおずとロールパンを手に取る。つやっとした表面は、日の光を受けた小麦のように輝いていた。軽く柔らかいパンは、まるで子猫でも抱えているかのように繊細な温もりを蓄えている。それはまるで、命のようだった。 「紬ねえが亡くなる少し前に、堆肥葬のニュースを見て言ってたんです。私、これがいいって。これなら海瀬さんと、意味は違うけど一緒になれるって嬉しそうに」 「一緒って……」 「何をバカなこと言ってんだって、私怒ったんです。そしたら、冗談だよって返ってきてほっとしてたのに……多分、冗談なんかじゃなかったんだなって。海瀬さんから紬ねえが死んだって連絡をもらった時、分かりました。だからせめて、にっちもさっちもいかなくなった姉の人生だったけど、最期の最後くらいは願いを叶えてあげたくて……」  麦歌はリビングの棚に飾ってあった箱を手に取り、海瀬へと振り返る。 「これ、覚えてますか?」  それは忘れもしない、紬への婚約指輪だった。麦歌が用意してくれたのだろう綺麗なジュエリーボックスに収まった指輪に、海瀬は最後にその指輪を嵌めていた紬のやせ細った指を思い出す。  小さく海瀬が頷き返すと、麦歌は思い出し笑いとしてふっと息を吐いた。 「事故から一年ちょっと経ったくらいのまだ元気だった時に、家の掃除をしてて見つけちゃったらしいです。きっと自分が元に戻るのを待ってくれてるんだって喜んでました。だから頑張るって、この指輪が相応しい女になってみせるって」 「そんな……」  がくん、と海瀬が膝から崩れ落ちた。 「お、俺がそんなもの買ってたから……そんなの、やっぱり俺が……俺が紬を余計に追い詰めてただけだ……っ!」  パンを潰さないよう手の平に乗せたまま、海瀬はふるふると唇を震わせた。そんな海瀬の肩を麦歌が勢いよく叩く。 「った……⁉」 「私からしたら、二人ともバカ真面目すぎ……っていうかバカです!」  語尾が震えている気がして、海瀬はおずおずと視線を上げた。海瀬を見下ろす麦歌は、堪えきれなくなった涙をぼろぼろと零す。 「なんなんですか! 自分が元に戻るのを待ってるとか、指輪に相応しいとか! くっそくだらないです! 指輪をあげたかったならさっさとあげればよかったのに! 紬ねえも海瀬さんと一緒にいたいなら、こんな方法じゃなくてもっと別の……別の、方法が……っ!」  麦歌は堰を切ったように泣きながら、ぺたりと床にしゃがみこむ。涙で溺れそうになるのを、海瀬にしがみついて耐えているようだった。よすがにされてしまった海瀬は、それ以上崩れられずに麦歌を支える。  泣くほどに体温を上げていく麦歌を支えながら、海瀬はロールパンへ恐る恐る顔を寄せた。唇の薄い皮膚に、わずかにパンの温度を感じる。  味なんて関係ない。ただ、一緒にいたかったと願ってくれていた紬の願いを、自分の中に余すことなく取り込んでやりたかった。  ふわりと柔らかく生地が解け、口の中に入っていく。とろっと舌の上で蕩けていくパンの触感、そして、わずかに感じる麦の香りにはっとした。  どこか他人のもののようだった身体に、血液や呼吸という生命の息吹が隅々まで届いていく懐かしい感覚。その感覚を逃すまいと、海瀬は夢中になってロールパンを食べた。咀嚼するほどに、命の火へと薪がくべられるようで全身が熱くなる。 「麦歌さん」 「……はい?」 「俺としては、生きて隣にいてほしかったけど……紬と俺の願いを叶えてくれてありがとう。俺はまた、紬と一緒に生きていくよ」  海瀬の言葉に、麦歌は何度も頷き返した。  紬が亡くなり、堆肥になるまで一ヵ月。  秋に畑へとまかれ、そこで実った小麦が収穫されるまで十か月。  小麦粉として捏ねられ、ほかほかのパンとして海瀬の口に運ばれるまで、一年。
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