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退院してしばらくすると、紬は再び修行先のレストランへと働きに行くようになった。
「皿洗いくらいはできるし、師匠の味に触れてた方が味覚も早く戻るかも」
「そうだな……なんかあったら、連絡しろよ」
「もう、大丈夫だってば。いってきまーす」
くすくすと笑いながら出ていく紬の姿は、まるで事故などなかったかのようにいつも通りだった。だと言うのに、海瀬の胸はずっとざわついている。
元々弱音を吐かない紬だ。誰よりも不安なはずなのに、こんな状況ですら平気なフリをして笑っている。間違いなく無理をしているはずなのに、その無理を解消する術を海瀬は何も思いつかなかった。
一見、今まで通りの日常が戻ってきて、事故で紬の身体にできた擦り傷は綺麗に消えた。年末年始にはお互いの実家に帰省し、春が来て海瀬が社会人二年目を迎えた。
なのに、紬の味覚は戻ってこない。
二人の日常で飛び交っていた食べ物の話題は鳴りを潜めていた。味覚を失い味見ができなくなった紬は、ちゃんとした味を作れるか不安だから、と海瀬に対して料理を作らなくなった。
それどころか、紬は徐々に固形物を食べることに苦手意識を覚え始めていた。最近では、エネルギー補給用のゼリーやサプリメントを摂取するばかりで、それまでの食事という概念さえ変わり始めている。
そんな紬の変化に、海瀬もまたひとりご飯が増えた。今までは紬と歓談の時間であった夕食の席を、紬が避けるようになったからだ。料理が作れない海瀬は、必然的に外食かコンビニでのご飯がメインになった。コンビニでご飯を買ってきて家で食べていると、たまに紬が物欲しそうな顔でやってくる。
「美味しい?」
と聞いてくる紬に、海瀬は事故に遭う前と同じように、
「美味しいよ。一口食べる?」
と聞いてみた。基本的に断る紬だったが、時折食べる、と返してくる時がある。その日も紬は食べる、と返してきた。
焦がしにんにくチャーハンをスプーンで掬って紬へと差し出す。それをパクリと口にした紬は、しばらくもぐもぐと口を動かしていた。スプーンを握りしめる海瀬は、次の紬の言葉を待つ。
「んー……やっぱり味しないや」
へらっと力なく笑って、紬はそのまま寝室へと引っ込む。そんな紬に、やはり海瀬は何も言えなかった。
まだ希望は完全に消えたわけじゃない。治る可能性はあるのだから大丈夫、そう言い聞かせた。
以前のような日常を取り戻した時には、隠してある指輪を渡そうと海瀬は決めていた。退院した時に渡すことも考えたが、こんな状態で結婚の話をしても、紬が心から喜んでくれない気がしたのである。
そうして互いに大丈夫と言い合いながら、事故から一年経った頃。
「レストラン、辞めてきた」
「え……」
ある日、海瀬が家に帰ると真っ暗な部屋の中で紬はぼそりと呟いた。リビングで膝を抱え、何も映していない瞳が床へと向けられている。
「辞めたって、なんで……」
海瀬の疑問の言葉に、それまで精気のなかった紬がキッと海瀬を睨んだ。
「味も分からないのに、料理人になんてなれるわけないじゃないっ!」
絹を裂くような金切り声で紬が叫ぶ。紬から初めて聞く声に、海瀬は何も言えずに立ち尽くす。
「治るかもしれないなんて嘘、薬だって飲んでるのに全然戻らない! 何を食べても味がしない。あんなにご飯は美味しくて、水道水は生臭くて嫌いだったのに。嫌だ、もうこんなの。全部、全部一緒! 何を口に入れても全部っ!」
紬の叫びは、まるで血を吐いているようだった。荒い呼吸を繰り返して虚空を睨んでいた紬は、はっと目を丸くしてようやく海瀬を正しく瞳に映す。紬が海瀬を認めた瞬間、ぶわりと瞳から涙が溢れ出した。
「ごめ、ごめんなさい……チカくん、ごめん……」
先ほどの苛烈なほどに感情を爆発させていた紬は、花が萎れるようにその場に蹲る。
「だ、大丈夫だよ、紬。俺はちょっと、びっくりしただけだから」
「ご、ごめん、チカく……はっ、チカ、く…っ、ぅ……はっ、はぁっ、はぁ……っ」
「紬⁉」
床に蹲った紬は、喉を掴んで引き攣ったような呼吸を繰り返す。ここ半年ほどで増えた紬の過呼吸だった。背中を擦り、落ち着いた声音を作って紬に語りかけた。
「紬、ゆっくりな、ゆっくり呼吸しろ。ほら、いーち、にーい、さーん……」
「はっ、ふぅー……ふっ、ふぅー……」
海瀬が呼吸を促せば、少しずつ紬は落ち着きを取り戻していった。熱を持ち、じんわりと汗が滲んだ紬の肩を海瀬が静かに撫でていく。
「今は辛い時なんだし、仕事くらい休めばいいよ。お金はまぁ、俺の給料じゃ贅沢はできないけど、生きてはいけるし大丈夫」
「ごめんね、チカくん……」
「謝らないでいいって」
この先も、紬と歩いていきたいと願う海瀬だ。これはきっと、二人で乗り越えるべき障壁。だとしたら、辛い状況の紬にできる限り寄り添うのが務めだと、海瀬は骨が浮き上がりそうなほど薄くなった彼女の身体を抱き締めた。
レストランを辞めた紬は、一日のほとんどを家で過ごすようになる。料理以外の家事を進んでやってくれて、リラックスした表情も見られるようになった。海瀬は休息が取れている紬の様子にほっとしていた。
だが、東京での二人暮らし。自炊ができないゆえに、食費が生活を圧迫してくる。紬の前では話さないが、ここのところ海瀬のランチは毎日、社食の三百円素うどんだけだ。
昼休憩の時間になって、海瀬のところへ同僚である船曳がやってくる。
「海瀬。会社の近くにうまいとんかつ屋見つけたんだけど、どうだ?」
「とんかつ……!」
船曳の誘いに、海瀬は思わず瞳を輝かせてしまう。
船曳は良くも悪くも正直で、店員が傍にいようがいまいが美味しい物には美味しいと言うし、まずいものにはまずいと言う。その性格には時折、ひやっとする海瀬だったが、それゆえに船曳の「うまい」の言葉は信じている。船曳も海瀬の食べっぷりを気に入っていて、美味しい店を見つけるとよく誘ってくれた。
だからきっと、そのとんかつ屋も本当に美味しいのだろう。だが、とんかつ定食は大抵、千円は超える。今の海瀬にそんな出費をする余裕はなかった。
「悪い、また今度な」
「今度って、今日も素うどんかよ。出汁のうっすい」
「社食のおばちゃんの愛が籠もってるんだ。いいだろ」
とはいえ、さすがに毎度同じメニューを食べ続けることは海瀬にとってストレスでもあった。元来、食べることが好きな海瀬だ。食事に制限がかかってくることに、何の不満もないと言えば嘘になる。
海瀬にはあっさりしすぎている社食の素うどんを、がやがやと賑わう社食で周りの他愛ない会話を聞きつつ、ひとり啜る。
「親の介護が結構大変でさぁ……嫁の飯がまずいって食っても吐き出すんだよ」
「あー……うちのばあちゃんもそんな感じでしたね」
「ってかお前、結婚式いつだよ」
「だから、考えてますって! 先輩こそ、絶対来てくださいよ」
何気ない会話。その会話の節々に出てくる単語に、間違いなく時間が進んでいるのだと実感する。
海瀬の周りでも変化はあった。どれもあまり、良い変化ではなかったが。最近、家に帰るとこの部屋だけずっと時間が止まっているような気がする。泥沼に足を突っ込んで、上手く前に進めないまま、紬と二人でゆっくりと沈んでいっているような気分だ。
「ごちそうさま」
嫌な考えを打ち消すように、海瀬はパンッと手を打ち合わせた。
素うどんを五分もかからずに食べ終え、腹四分目で海瀬はデスクへと戻る。午後の仕事に手をつけていると、昼休憩の終わりギリギリになって船曳が帰ってきた。
「ほら、やるよ。お土産」
「え?」
船曳はビニール袋を海瀬のデスクの端に無造作に置く。袋の表面には『とんかつ屋 花勝』とロゴが入っていた。海瀬はいそいそと袋の中に入っている紙パックを開けると、中には美しい断面のとんかつサンドが四つ綺麗に収まっていた。
「最近のお前、四時くらいからずっと腹鳴っててうるせぇんだよ。それ食って、腹の虫黙らせとけ」
「ふ、船曳~……!」
「一応言っとくけどタダじゃねぇからな」
「いや、でも、今は金に余裕なくて……」
金は払えないと、断腸の思いで海瀬が袋ごと船曳に突き返す。そんな海瀬の頭に、船曳はすとんと手刀を落とした。
「ぃった!」
「違ぇよ。お前の彼女、今はあれだけど、料理美味いんだろ? また料理作れるようになったら、俺にも作ってくれるって交換条件でどうだ」
紬が入院した時、急遽有給を取ったこともあって、船曳には大体の事情を話していた。船曳の不器用な優しさに海瀬はとんかつ屋の袋を握りしめる。
「そう、だな……その時はぜひ、家に招待させてくれ」
「忘れんなよ」
海瀬はもう一度、とんかつサンドをじっと見つめる。そして、そっと紙のパックに蓋をした。その海瀬の様子に、船曳は怪訝そうに眉尻を上げる。
「んだよ、食わねぇのか?」
「船曳お墨付きのとんかつサンドだから、紬にも食べさせてやろうと思って」
「なら、腹の虫は気合で抑えとけ」
「無茶言うなぁ……」
その日は船曳からのお土産を手に、海瀬は軽い足取りで家へと帰った。美味しいものを食べれば、紬の味覚にとっていいことがあるかもしれない。そんな奇跡を海瀬は期待せずにいられなかった。
いつか船曳を呼んで、紬と海瀬の三人で食卓を囲む時間を想像した。紬も負けず嫌いだから、もし船曳に微妙な反応をされても次々と別の料理で挑んでいくに違いない。そんな二人を眺めながら、お腹いっぱい紬の料理を食べまくる自分の姿を想像して、海瀬は頬を緩ませる。
「ただいま」
「おかえり」
家に帰ると、紬は今朝と同じルームウェア姿でテレビを見ていた。そんな紬に海瀬がとんかつ屋の袋を掲げてみせる。
「今日はお土産があるんだ」
袋を見た瞬間、紬の瞳がふっと泥のように淀んだ。その昏い視線に、海瀬はびくっと身体を硬直させる。
しかし、紬はすぐにぱっとにこやかな笑みで昏い視線を覆い隠した。
「とんかつ? いいね、お皿出すよ」
「あ、うん。ありがとう……」
先ほどの紬の表情に、海瀬の背筋はぞっと冷えていた。まだわずかに粟立った肌を誤魔化すように、ビニール袋の中からとんかつサンドを取り出す。
海瀬は一切れを紬の皿に、二切れを自分の皿に乗せ、残りの一切れは紬の反応を見て考えることにした。
「じゃあ、いただきます」
紬がじっととんかつサンドの断面を眺める。そして、ゆっくりと柔らかい食パンに歯を立て、挟んだとんかつごと口に含んだ。もぐもぐと口の中で咀嚼され、そして舌の上で転がっているだろう様子を海瀬はとんかつサンドを手に持ったまま、無言で見つめていた。
「うっ……!」
唐突に、紬が口を抑えた。
しかし堪えきれず、次の瞬間には口の中のものを吐き出してしまう。
「紬……!」
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