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口を抑えた紬の手指の間から、ぼとぼととペースト状になった食べ物が落ちていく。胃液も混ざっているのか、酸っぱい匂いが海瀬の鼻をついた。
紬の服と床に敷いたラグが汚れ、海瀬は紬を抱え上げる。抱え上げた紬の身体が軽すぎて、心臓がドッと嫌な音を立てた。顔を青くした紬を揺らさないように海瀬は尋ねる。
「まだ吐きそうか?」
紬は首を横に振った。海瀬は紬を風呂場へと連れていき、給湯器のスイッチを入れる。シャワーからお湯が出てくるのを待ちながら、紬の吐瀉物で汚れた服を脱がせていった。
「ご、めんね、チカくん……せっかく、お土産……」
「大丈夫だって。揚げ物なんて久々で胃がビックリしたんだろ。俺こそごめんな、気付かなくて」
そろそろお湯が出てきた、と海瀬がシャワーから出る水に手をかざしていた時だった。
「……死にたい」
シャワーに掻き消されそうな声で紬が呟く。ぼうっとしていたら聞き逃していただろう呟きに、海瀬は目を見開いた。
「死にたい。こんな、私……死んだら、楽に……」
ぺたりと座り込み、だらりと力なく腕を下ろした紬の、肌を晒した姿を海瀬は久々に見た。鎖骨の下の薄くなった皮膚には薄っすらとあばらが浮かんでいる。肩の丸みも消えて、人並み程度にあった健康的な太腿は病的に細く血管が透けるほど白くなっていた。
死にたい、と呟くほどに紬から魂のようなものが抜けていくようだった。再び口を開きそうになった紬の言葉に被せるように、海瀬がことさらに明るい声を出す。
「紬、落ち着けって、な?」
「…………うん」
服も脱がされるがままだった紬が、シャワーヘッドをよろよろと掴む。
「シャワー、自分で浴びられるから大丈夫だよ」
「分かった。汚れた服は……」
「それも、自分で洗えるから大丈夫」
「そっか、また気分悪くなったらすぐ呼んで」
それだけ言い残し、風呂場の扉を閉める。雑巾用のタオルを濡らして、リビングへと戻った。ラグの上に落ちた吐瀉物を片付けながら、ふいに昼間の記憶が蘇る。
──親の介護が結構大変でさぁ……嫁の飯がまずいって食っても吐き出すんだよ
介護、という文字が海瀬の脳裏に浮かび上がる。
紬は料理以外の家事はしてくれてるし、今だって自分の身体は自分で洗えている。全然介護なんてものじゃない。何を馬鹿なことを考えているのだろう。今は、辛い状況にいる紬が自分によりかかる比重が増えているだけ、きっと今だけだ。きっと。
「……」
今って、あと何年、今が続くんだろう。
そんな途方もないことを考えそうになって、海瀬は無心でラグを拭い続ける。染みも匂いも完全には消えなくて、洗濯することにした。とんかつサンドは結局、三切れとも海瀬が食べた。
社会人になって、時間は飛ぶように過ぎていくのだと海瀬は思った。気付けば海瀬は社会人三年目を迎え、後輩ができて教える立場だ。
任される仕事も増えてバタバタと相変わらず忙しいその日。船曳が海瀬をランチに半ば強引に連れ出した。美味しいとSNSで評判だが、男ひとりじゃどうにも行きづらい店だから一緒に来てほしいとのことだ。
確かに、店内には友達と連れたってやってくる女性客が多く、船曳でもそういうことに抵抗があるのだと海瀬は三年目にして知った。そしてやはり、彼が目をつけた店なだけに料理はうまい。
「悪いけど、会計は……」
「最初に言った通りだ。俺が七、お前が三でいいだろ?」
「ごめん……」
「謝るな。ここのところ『ごめん』が口癖になってねぇか?」
船曳に指摘され、海瀬はふと自分の言動を振り返る。確かに、何か言う度に言葉の最初に『ごめん』などの謝罪の言葉をつけるようになっていた。
社会人になって、上司やら顧客やらに謝る機会は増えたものの、おそらく一番の原因は家での会話だ。紬は何かある度に海瀬に謝った。この世のすべては自分のせいだとでも言うように。
「正直言って、どうなんだよ」
「どうって?」
「お前の彼女のこと」
いつも本題をズバッと切り出す船曳にしては、珍しく言葉を選んでいるようだった。こんな店に連れてきたのも、この話をするための口実だったのでは、と海瀬には思えてくる。
「まぁ、相変わらず……かな」
「仕事も辞めてさ。話聞いてると鬱っぽいし……もう結構経つだろ? 専業主婦も難しそうで、お前はずっと金欠で趣味の食事も楽しめなくて、このままずっと今の関係をずるずる続けんの?」
言葉は違えど、それは海瀬もふとした瞬間に考えることだった。
自分はいつからか間違っていたのでは、と海瀬は自分自身に問いかけてしまう。
例えば、あの事故の後、もっと早く紬に味覚は戻らないと言い切っていれば? とか。レストランを辞めた時、料理人とは別の道を探すのを手伝っていたら? とか。
海瀬がやってきたことと言えば、紬の「治るかもしれない」という希望を否定せず、大丈夫だと言って寄り添うことだけだった。
海瀬も紬も、過去に見切りをつけることができないまま、こうして時間が過ぎている。
「今からでも、料理と関係ない職種のバイトを勧めても遅くないだろ」
船曳の正論に、海瀬はぐっと胃が重くなった。海瀬の脳裏にスマホで調べた求人サイトの情報が過ぎっていく。
「勧めようって何度か考えたことある。けど、そういう時に限ってさ、紬が料理するんだ。自信がないからって食べさせてくれないけど……それ見ると俺、やっぱり料理人って紬の夢を応援したくなっちゃって……」
「言えないまま、か……」
膝の上で拳を握りしめる海瀬を、船曳が眉根を寄せながらじっと見つめる。
二人の間に流れる沈黙を、店内の楽しげなざわめきが埋めた。時折響く女性の笑い声が、いやに海瀬の耳を突き刺す。顔を顰めそうになった海瀬は、お冷をごくりと飲み干した。
「本気で応援したいなら、結婚指輪渡せば?」
船曳のどこか突き放したような声音に、ビクッと海瀬が顔を上げた。
「でも、今は……」
「そうやって理由つけて渡さないのは、お前がこの先彼女と一緒にいられるのか不安だからなんじゃねぇの?」
「違っ、俺は……!」
理由を言おうとして、海瀬は言葉を失った。
「俺、は……? あれ……?」
こんな状況で結婚の話をしても紬は嬉しくないだろう、と勝手に決めつけたのは海瀬だ。もし、そんな決めつけをせずに指輪を渡していたら今と何か変わったのだろうか。
その可能性を見ないフリをして未だに指輪を隠しているのは、船曳の言う通り紬との将来が見えなくなっているからじゃないのだろうか。
「一応言っておくけど、俺はお前をすげぇやつだと思ってる」
しかし、その船曳の言葉には純粋な尊敬というより一種の侮蔑を感じた。
「何だよ、急に……」
「そんな状態の彼女と同棲して、よく二年以上正常でいられるなって。『死にたい』が口癖になった彼女の面倒を見ながら、仕事もきちんと成果出すとか俺には無理」
「何が、言いたいんだよ」
その言葉を待っていたとばかりに、船曳は真正面から海瀬を見据えた。その瞳を見て、海瀬はこれが正真正銘、船曳の本題だと気付く。
「俺だったら、期限を決める」
「期限って、何の……?」
「自分の中で、あと一年この膠着状態が続いたら彼女と別れようって期限」
「……!」
別れるという選択肢は、海瀬の中からすっぽりと抜け落ちていた。だからこそ、船曳の言葉は雷にうたれるような衝撃を海瀬に与える。
「まさか、考えたこともなかったのか?」
「それはだって、俺が傍にいてあげないとって……」
それも、海瀬の勝手な思い込みだった。
事故から今日まで、自分に言い聞かせてきた『理由』たちは、ただ自分を納得させるためだけのものだったんじゃないだろうか。本当に、紬がそれを望んでいたのだろうか。寄り添うことが優しさだと、紬との衝突を避けるだけで自分を守っていただけじゃないと、言い切れるのか。
それどころか、紬にとって自分は料理人という夢を諦めないためのただの重しだったとしたら? その重しが無ければ、紬は今頃別の道を見つけていたかもしれない。『死にたい』などと口にしなかった、そんな未来があったかもしれない。
「海瀬」
すっかり俯いて考え込んでいた海瀬を、船曳の声が現実へと引き戻す。
「ちゃんと彼女と向き合ってみろよ。まだ遅くねぇから」
「……あぁ」
まだ遅くない。本当に、まだ遅くないだろうか。
その日の仕事は、ずっと集中できなかった。何をしていても、家に帰ってからの紬への言葉を考えてしまう。どんな言葉を使っても、彼女を傷つけてしまうような気がした。
いや、違う。そうやってまた自分自身が傷つかない道を探そうとしている。そう気付いて、海瀬は重たい息を吐き出した。
船曳にあそこまで叱咤されたのに何も言わずにいれば、またあっという間に一年くらい過ぎてしまいそうだ。それでは船曳の言うように、ずるずると関係を続けているだけ。海瀬は損得だけが人との関わりではないと思いつつも、確かにこのままの状態では誰も得はしないだろうと気付いていた。だからこそ、必死で言葉を考え続ける。
ついに家に帰り着いても、やはり相応しい言葉なんてものは見つからなかった。たどたどしくなっても、何か今の状況を変えるような提案をするべきだろう。ケンカになったとしても、そこから見えてくるものがもしかするとあるかもしれない。
玄関のドアノブに手をかけるも、なかなか開けることができなかった。八月の夜は日が沈んでもじっとりと汗が滲む。
ふっと息を吐き出し、海瀬は玄関を開けた。家の中は真っ暗で、少しずつ目が慣れてくると紬は寝室のベッドで布団の中に蹲るようにして横たわっている。最近はベッドから起き出すのも辛そうで、必要最低限の家事ができるかどうか、というところだ。
「ただいま、紬」
「お、かえり……」
海瀬以外に会話をする相手がいないせいか、紬の声は掠れていた。海瀬はベッドの脇に腰を下ろす。
「えっと、ちょっと話してもいい?」
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