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海瀬はできるだけ優しく声をかけたつもりだったが、紬はびくりと布団の中で震える。布団の影の中から、妙にギラギラと光る紬の目が海瀬を見上げた。
「何……?」
「最近、家から全く出てないだろ? 例えば、少しの間実家でのんびりするのはどう?」
「えっ……」
「東京ってうるさいし、地元の方が静かで気分も変わるかなって……」
言いながらも、その提案で本当に正しいのか、と不安が海瀬の胸に広がる。なかなか返事をしない紬に、海瀬の不安は際限なく広がっていった。何か次の言葉をかけた方がいいだろうか、と冷や汗に冷や汗を重ね始めたその時、
「…い、な…って、…と……?」
「え……」
布団の中から、くぐもった紬の声が聞こえてくる。布団は、ふるふると震えていた。
「紬、ごめん、なんて……?」
「わ…、い…に、……たく、って、と……?」
先ほどよりも声は聞こえるようになったが、それでも判然としない。いつまでも顔を出そうとしない紬に、海瀬の中で広がった不安はじわじわと焦燥感とわずかな苛立ちへと変わっていく。
「紬……とりあえず、顔見せてよ」
「あっ……」
布団を剥がし、中から現れた紬の姿に海瀬は息を飲む。
艶やかだった黒髪はボサボサで櫛を通せるのかも怪しく、同い年とは思えないほど白髪が混じっていた。触ればふにっと柔らかかった頬はカサカサに荒れ、窪んだ眉の下からギラギラと黒目が異様な光を放つ。折りたたむように体育座りをした身体は、老婆のように頼りなく小さい。
海瀬は毎日、紬のことを見ているつもりだった。しかし、いつの間にこんなやつれた姿になってしまっていたのだろう。出会った頃の紬というフィルターを通して見ていた海瀬は、その変わり果てた本当の紬の姿をようやく正確に瞳へ映し込んだ。
「チカくんは……」
色を失い、ぺりぺりと皮が捲れた唇で、紬はゆっくりと言葉を発する。
「もう、私と一緒にいたくないってこと?」
紬の姿に呆気に取られていた海瀬は、紬の質問の意図を計りあぐねた。数拍置いて、ようやく実家でのんびりするよう提案していたことを思い出す。
「違う違う! そういう意味じゃなくて、俺は単純に……」
「もう面倒になったんでしょ、こんな寄生虫みたいな女。チカくんは優しいし、給料だっていいし、実はもう別の可愛い女の子に言い寄られてたりするの?」
「なんで……っ」
なんでそんなことを言うのだろう、と海瀬は意味が分からなかった。分からなすぎて、言葉を続ける気力を失った。
海瀬が好きなのは紬で、紬のためならと不自由な食生活も我慢してきた。いつか、元の紬に戻ってまた楽しい生活が送れる日を願っていたからだ。
それなのになぜ、浮気をしたかのように疑われるのだろう。
「私がもっと早く死ねばよかったのに……」
違う、と海瀬の頭の中に否定の言葉が溢れていく。違う、違う、俺は死んでほしいだなんて思っていないのに、と。
「あの事故の時に死んじゃえばよかった? レストランを辞めるって決めた帰り道で踏切に飛び込めばよかった? それとも……」
「やめろよ……」
海瀬の地を這うような低い声に、紬はびくりと肩を跳ねさせた。紬の怯えた表情にも気付かず、海瀬は頭に昇ってくる沸騰した血を押し留めるように深く眉間に皺を刻む。
「それ以上、言うな……」
海瀬が何を言っても、紬には歪んで届いてしまう。やはり、もう遅かったのではないだろうか、もっと早くこうして向き合っていれば、という苛立ちともどかしさに海瀬は爪が食い込みそうなほど拳を握りしめた。
「どうせ死ぬ勇気もないくせに」
「っ……!」
海瀬の言葉を受けた瞬間、紬の瞳にぶわりと涙が滲んだ。その表情を見て、海瀬は遅れて自分が何を言ったのかようやく海瀬は理解した。弁明しようと口を開いた時には、泣き顔を隠すように紬は再び布団に潜り込んでしまう。
「ごめん、紬。ごめん……」
布団の中から聞こえてくる嗚咽に、海瀬はそれ以上言葉を続けられなかった。
その日の夜。いつもならベッドに二人で寝るのだが、海瀬は気まずさからリビングに掛け布団だけ持ってきて寝ていた。翌朝になったら、普通におはようと声をかけてみよう。そこで何か返事があれば、まだ対話の余地はあるだろう、と考えつつ海瀬は静かに瞼を閉じる。
眠りに落ちてしばらく、カララ……と音が聞こえた気がして海瀬は目を覚ました。外はまだ暗い。ただ、寝る前よりも風の音がよく聞こえる。
「紬……?」
無意識に名前を呼んでいた。返事はない。寝ているのだろう、と済ませることもできたが、先ほどの音も気になって海瀬はのそりと起き上がった。
寝室を覗くとカーテンが風で煽られている。外からの街灯に照らされたベッドには、掛布団が丸まっているだけで紬の姿がなかった。
風になびくカーテンの向こうでカン、と金属を打つ音がする。その音が聞こえた瞬間、海瀬は反射的にベッドの向こうにあるベランダへと駆け寄る。
「紬……っ」
ベランダには柵の向こうに身体を出し、今にも飛び降りようとしている紬の姿があった。
「な、何やってんだよ。危ないから戻ってこいって……」
「……ごめんね、チカくん」
「っ⁉」
パッと柵から手を離した紬に、海瀬は慌てて手を伸ばした。
ギリギリで紬の右手首を掴むも、ぐったりと力を抜いた紬の重さに肩が抜けそうになる。ここはマンションの五階。下はアスファルトでクッションのようなものはない。これだけ弱りきった紬が地面に叩きつけられたら、まず助からない。
「お、俺が、バカなこと言ったから? 死ぬ勇気もないくせにとか、変なこと言ったからなのか⁉ ごめん! 違う、謝るから! とにかく俺の手、掴んで……!」
突然のことに海瀬の心臓はバクバクと音を立て、呼吸が荒くなる。離せば紬は本当に死んでしまう。そんなプレッシャーからか、あれだけ軽く抱えられていたはずの紬の身体が、今はどうしようもなく重い。
「チカくん、指輪ありがとね」
「え……?」
「でもほら、見て?」
紬がぶらりと垂れ下がっていた方の左手を海瀬に見えるよう、待ち上げる。その薬指には、海瀬が隠していたはずの婚約指輪がぶかぶかの状態で嵌まっていた。
「今の私に、全然似合わないの。チカくんのお嫁さんになる資格は、もうないみたい」
「なんだよ、資格って……! そんなのそもそも必要ないって!」
海瀬の肩が悲鳴を上げる。だと言うのに、紬は自身の右手首を掴む海瀬の指を、指輪が煌めく左手で解こうとする。
「おい、紬! バカバカ! やめろっ!」
「ごめんね、チカくん……いっぱい迷惑かけて。でも私、決心がついたの……」
「紬……! 紬、頼むから! 俺の手掴んで! お願いだから! きっと大丈夫だから!」
何が大丈夫なのか分からなかった。けれど、ずっと紬を安心させようと言い続けていた言葉がぽろりと零れてきた。大丈夫であってほしいという、海瀬の願望でもあった。
海瀬の手から、ずりずりと紬の手が落ちていく。手首を掴んでいた手は、今や握手をするようにかろうじて掴んでいる状態だった。
それなのに、紬はどこかほっとしたように笑顔を浮かべて海瀬を見上げる。
「私ね……チカくんと、一緒にいたいんだ」
紬の親指が、そっと海瀬の手を撫でた。次の瞬間、海瀬の手からずるちと紬の手が滑り落ちていく。
「っ……⁉」
夜闇の中に吸い込まれていくような紬の姿に、海瀬は叫んだ。
地面と紬のぶつかる重たい音がして、直観的にダメだと悟った。目の前の柵を掴みながら絶叫する。喉から血の味がしても、それでもなお、海瀬の慟哭が暗い早朝に響き渡っていた。
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