ひとひとりがごはんになるまで

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 海瀬(かいせ)は久しぶりに故郷・北海道の土を踏んでいた。土と言っても、ここは空港のロータリーで踏んでいるのは石のタイルである。  北海道と言えど八月は夏に違いなく、暑いものは暑い。就職祝いでもらい七年連れ添っているリュックと背中の間が蒸れている。右手にあるソフトクリームも、すでに溶けかけてコーンから零れそうだった。  海瀬は飛行機を降りてすぐ、空港内の『早朝に牧場から直送された牛乳で作ったソフトクリーム!』とデカデカと貼られたポップを見つけた。冬の景色を思わせるようなうっとりする白いとぐろは、甘く濃厚なクリーミーさを想像させる。  そして結局、海瀬は買ってしまった。すでに何口か食べたソフトクリームを、またぺろりと舐める。 「やっぱり、味はしない……」  一年前から、海瀬は味覚障害に悩まされていた。何を食べても味も匂いもしない。海瀬の口に入ったものはみな等しく無味無臭だ。  それでも海瀬がこのソフトクリームを購入したのは、故郷の味に触れればもしかしたら、という一縷の希望があったからだ。それもあっけなく打ち砕かれたが、ショックを受けていないのは、希望はあってもそれほどの期待がなかったからかもしれない。故郷の味で味覚が戻るようであれば、おそらくもうとっくに改善されている。  味はしないけれど、物心ついた頃から食べるのが好きで、食べ物を粗末にできない海瀬は残りのソフトクリームをコーンまでバリバリと食べきった。胃の中にすうっと冷たいものが落ちる感触だけがあって、その虚無感に海瀬は悲しくも慣れ始めている。 「海瀬さん!」  ロータリーに停まっていた軽トラックのフロントガラス越しに、二十代前半の女性が手を振った。化粧っ気がなく、素朴な笑みを浮かべる頬は日に焼けていている。彼女に対して海瀬はおずおずと手を振り返した。  この帰郷の目的には、軽トラを運転する彼女・麦歌(むぎか)に会うという前提があった。それを承知の上で東京から飛行機を使い、土日の休日に北海道まで来たのだ。ここで逃げるわけにはいかないと分かりつつも、海瀬の足は重い。ずるずると引きずるように軽トラまで辿り着いて、ようやく助手席の扉を開けた。  その時ようやく、海瀬は真正面から麦歌の顔を見る。彼女の眼差しに捉えられた瞬間、ひゅっと情けない音が喉から漏れる。指先が、かじかむ。 「っ…むぎ、……」  麦歌の顔に重なったのは、ほっとしたような笑みを浮かべる女性の面差しだ。 「……ほら、早く乗ってください。後ろからも車来てるんで」  麦歌の声に、海瀬ははっと現実に引き戻された。  ロータリーへ入ってくる車の列を見て、海瀬はそそくさと助手席に乗り込む。動き始めた軽トラに、海瀬はまだ若干の後悔を引きずっていた。  広大な大地を軽トラが走り続ける。周りからは徐々に建物がなくなり、緑ばかりが広がるようになった。その光景に海瀬が懐かしさを抱いていると、畑の間にぽつんとぽつんと丸く大きなロール状のものが点在している。 「あの丸いのって何?」 「あぁ、麦稈(ばっかん)ロールですか? 小麦の収穫の時にああして置いていくんです」 「へぇ……」  軽トラを運転する麦歌は慣れたハンドル捌きで駐車場へと入っていく。そこは、畑に囲まれた赤い屋根の一軒家だった。駐車場の横にあった『萩森』と苗字の書かれた表札に、海瀬はごくりと唾を飲み込む。  車を降りて、先を行く麦歌の後を追いながら海瀬は恐る恐る玄関へと上がった。少し廊下を進むとすぐに、広々としたリビングに通される。 「そのうち母も来るので」 「いや、俺は……」 「お茶淹れるんで、遠慮なく寛いでくださいね」  寛ぐなんてできるわけがない、と海瀬は直立不動のままキッチンへ向かう麦歌の背中を見送った。その背中は、前に見た時よりも痩せているように海瀬は思う。  海瀬が麦歌と最後に会ったのは、およそ一年前だ。寛容な性格の海瀬が押しの強い麦歌の言葉に待ったをかけられないことは、最初に会った数年前から変わっていない。  キッチンからトタトタと床の上を歩く足音と、カチカチと食器同士の擦れるような音がする。海瀬は自身がこの家に長居していい人間でもなければ、ましてやお茶を出してもらうような人間でもないと強く思っていた。それゆえに、麦歌が何かの準備に時間をかけるほどに冷や汗が身体から滲んでくる。 「麦歌ちゃ……さん。本当にお構いなく。それに俺、何を口にしても味がしないので」 「味がしない?」  海瀬の言葉に、麦歌はキッチンからちらっと顔を覗かせた。 「だから、俺はすぐにでも……」 「じゃあ、なおさら待っててください」  なおさら、の意味も海瀬は聞けないまま、麦歌はキッチンへと頭を引っ込めた。そしてすぐ、チンッと音がする。それは海瀬にもよく聞き覚えがある、トースターの温めが終わった時に鳴るあの音だった。  キッチンから戻ってきた麦歌は小皿を持ってきた。皿には、ほんのりと湯気を立てるふくふくと膨れたロールパンがひとつ乗っている。 「飲み物は牛乳にしますか? それともコーヒー? 紅茶もありますけど」 「だから、味がしないって言ってるのに……」 「大丈夫です」 「大丈夫って何が?」  海瀬は苦々しく聞き返した。『大丈夫』はずっと、自分が言い続けていた言葉でもあったからだ。でも実際、大丈夫なんかではなかった。海瀬も、“彼女”も。  病院にだって行った。薬だって飲んでいる。それなのに、味覚が戻ってくる気配なんてない。目の前のパンからは、きっと小麦のいい香りが漂っているのだろうと想像できる。それなのに、何も感じない。失ってしまったという絶望感に、膝から力が抜けそうになる。頭を抱えて俯く海瀬の前に、麦歌はさらにパンを強く差し伸べた。 「これは、姉の……紬ねえのパンです」 「紬、の……?」  紬は、海瀬にとって高校の同級生。そして、恋人だった。
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