春乱痴気

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 ハ、と気づくと、馴染みの銀二がいた。夜五ツ、行灯に照らされた白い肌と鋭い眼がぞくりとさせる。右の眉尻に一つ、その目じりにも一つ泣きぼくろがあり、流し目がまた艶っぽい。町の火消しで、番付にも載っている色男で、材木問屋のご隠居の酔狂に付き合わされている。ご隠居の趣味は、気に入った遊女と番付に載った若いのを同衾させ、それを絵師に描かせて蒐集している。  ご隠居はくれ葉の馴染みで、織日はくれ葉と座敷に出て、一緒にいた銀二と馴染みになった。  銀二(この男)は目でものを云い、女をその気にさせる。眼光は鋭いくせに、しっとりと濡れ、どうにも女心を柔くさせる。 「なあ、織日、オレがお(メェ)を嫁にするって言ったら、どう思う?」  銀二は織日をきつく抱き寄せ、憚るように囁いた。 「……それは、わっちを身請けするって、ことでありんすか?」  そっと寄り添い首をかしげ、小声で返す。 「ああ。オレがお(メェ)をこっから出してやる」  なにか決心めいた表情で、静かに、揺るぎない声で絞り出した。  これもこの男の愛撫かと織日は声もなく微笑む。  窓の先を見やれば、青白い月に照らされ、桜が淡く光るように見えた。  男の胸にしなだれかかり、さも喜びに蕩けたように、青白く光る男の白目の中にある黒い珠玉を見上げた。 「……うれしい」  振りである。  なんの取り柄もない女だ。織日は自分とくれ葉のことをそうおもっている。着飾って芸事をして男に媚びる以外は何にもできない。  そんな女が大門の外に出て何ができよう。今更この毒気強い極彩色の世界から出て生ぬるい浮世で暮らすなど恐ろしかった。 「織日、おいで」  広い座敷に布団を敷いて、くれ葉と戯れていたはずのご隠居に呼ばれた。織日はほっとする。銀二の真っ直ぐで強すぎる想いは苦手だ。あまりの締めつけに息が詰まる。手練手管は心得ていてもあしらいに困る。
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