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特に今のツバキとアヤメは同じ服装で、黙って座っていれば、おそらく互いにしか区別がつかないのではないかと思う程そっくりだ。
その区別も、自分が自分であると信じることに基づいている。
だから、自分が自分であると確かに言えなくなった時、自分ではなくなることもあり、また、片割れの存在をも疑わしくしてしまうこともある。
――つまり、アヤメが自分をツバキであると言い張った時、それを証明できるものがないのと同時に、ツバキがツバキだと確かに証明するものもないということ。
アヤメがアヤメであるから、ツバキがツバキであり得る。
周りにいる者たちは、2人が言ったことを信じるしかないのだから。
そこまでそっくりな二人ならば、入れ替わることなど容易いだろう。
マジでやる気なのか?
ニコニコしながら、カップに口を付け飲む振りをするアヤメを横目に、直久はそっとため息をついた。
自分と数久もよく入れ替わって周りの人を驚かせたものだ。
だけど、それは長くても一日の間の話で、一生数久として生きようとは、直久は思わない。
自分は自分だ。数久ではあり得ない。
例え、元々は1つだったとしても、2つになってしまった以上、2つとして生きるしかない。
そうと分かっていても、時々、自分ではあり得なくなってしまったもう一人の自分を取り戻したくなる。
そう、だから、入れ替わるのだ。
数久の振りをして、数久の世界を知る。数久が見ているものを知る。そして、改めて知る。自分は直久だ。
個としての自分。数久との間に分厚い壁を感じる。他人と同様の分厚い壁を。
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