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やがて四月。
路面にアスファルトが現れ、畑では夏に種を蒔いたニンジンが土の間から顔をのぞかせていた。
絶え間なく雲に覆われていた空は青く澄んで、雪に埋もれていた川はきらきらと光り、その岸辺には生き生きとした緑が芽生えていた。
長い冬の終わるころにはいつも、世界とはこんなにもいろいろな色彩があったのかと驚く。
都会にいてしばらく忘れていたその感覚は、少年のころと少しも変わらず彼を打った。
山麓からは雪が消えている。
スキー場はゴンドラで山頂近くまで客を運び、スキー客は山頂のいくつかのリフトを周回して、わずかな残り雪を楽しむ。
しかし、そんな時期ももう終わろうとしていた。
彼と同僚たちは一日の仕事を終え、ゴンドラで山を下っていた。
ヒラチさんは本業にもどり、以前は山麓寄りのリフトにいた正社員が穴を埋めている。
シノハラさんは窓に顔をつけて目をつぶっている。眠っているのだろう。
彼はスマホを見つめている。電波状態が悪くて何もできはしないのだが、そうしていないと間がもたない。
ミキトさんとケンゴ君が話している。ここの契約期限が過ぎた後の、仕事の話をしているようだ。
「決まったんすか、次?」
「ああ、ニュージーランド」
「ワーホリ(ワーキングホリデー)すか」
「いや、それは去年使ったから、普通に労働ビザ」
「お、マジすか」
「あっちでボードのインストラクターやるんだ」
「ミキトさん、英語ペラペラっすもんね」
「仕事に困らない程度だよ。ケンゴ君はアメリカ? ヨセミテだっけ」
「行きたかったんですけど、もうちょっと金が欲しいし、相棒の都合もちょっとつかない感じなんで」
「そうか」
「それで、第二クワッドのヒロさんが声かけてくれて、利尻で昆布とろうかなって」
「キツイぞ。あれ」
眠ってはいなかったらしいシノハラさんが、不意に言った。
「大丈夫すよ、経験者すから」
「あ、そうなんだ」
黙って聞いていた正社員の人が尋ねた。
「ヨセミテって何? 相棒とかって、何するの? アメリカで」
「岩っす」
「岩?」
「エルキャピタンっていう、花崗岩のでかい一枚岩があるんす。だいたい1000メートルの高さで、それを一週間ぐらいかけて登るんです」
「え? なんて?」
正社員の反応に、ミキトさんがくすくすと笑った。
「俺、ボードも好きだけど、もともとそっち方面の人なんで」
「ロッククライミングってやつ?」
「それっす」
彼はスマホを見ているふりを続けるのが苦しくなって、窓の外を見た。
オレンジ色の空に夕陽が沈んでいこうとしていた。
眼下の山はすっかり春だ。
シラカバやエゾマツが生える山のところどころに、見慣れない、痩せた感じの小さな木が生えている。
「ソメイヨシノさ」
彼の視線の先を追って、シノハラさんがぼそりと言った。
彼は信じなかった。ソメイヨシノが北海道に存在しないわけではないが、こっちで桜と言えばエゾヤマザクラかチシマザクラだ、まるで違う品種だ。
「先代の社長が、毎年何百本も買ってきて植えてな。もちろん、こんな雪山で育つような樹じゃない。ほとんどは死んでしまう。それでも、まあ、頭おかしい人だったんだろうな、全然あきらめないで、毎年同じこと繰り返して、このへんに見えてるのは、五、六年前のやつだな、まあ、みすぼらしいが、けなげに生きてる。花もちょっとつく程度で、ぜんぜんぱっとしないんだがな、生きてるってだけで立派なもんさ」
シノハラさんの話はそれで終わりだった。
彼は何を言えばいいのかわからなかった。
彼はスマホを防寒作業服のポケットにしまい、後方に去って行こうとする桜を目で追った。
ソメイヨシノ。
好きだと思ったことはない。
少しも馴染むことのできなかった、そして、何一つ学ぶことのできなかった、都会で暮らした時代の象徴のような花だった。
それが今、好きになったということではない。自分の感情がどういうものなのか、自分自身でうまくとらえることができなかった。
そのあとのせりふも、何か考えがあって言ったことではなかった。
ただ、口をついて出た。
「俺、小説家になりたいんです」
何年もの間思い続けて、この時初めて口にした言葉だった。
「へえ、そうかい」
シノハラさんはそう言って、ただ、優しく笑った。
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