桜のある風景

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 ずいぶん昔の話だ。  今はもう、あまりないことかもしれないが、あの頃はそれが普通だった。  花見の話だ。  職場のイベントとしての花見。  休日を無給で潰して、朝から公園の桜の樹の下にブルーシートを敷いて、この樹は占有済みですと示すためだけに、アブに刺されながらそこに座り続ける。そういう仕事。いや、労働としてカウントされないのだから仕事でも業務でもないのだが、新人のやるべきあたりまえの役目だった。  あたりまえのことだったから、5時を回って皆が姿をあらわしても、おつかれ、ともご苦労さま、とも言われない。ごく自然に、ビールを運んだり、ツマミを並べたりといった作業に流れ込む。  宴が始まると、席次の順に酌をしてまわり、空になったビール缶を片付け、新しくツマミの袋を開けたりしながら、上司が女子社員にセクハラまがいのことをするのを見てみぬふりをする。  そうしてゆっくりと暗くなっていく空の下で、飲んだくれの集団ができあがっていくのを薄ぼんやりと眺めているのは、一滴も酒が飲めない身には純粋に苦行だ。  自分はこんなところで何をやっているんだろうと思う。  夢とか実現したいことがあって、そこに勤めたわけではなかった。  ただの世間体だった。  小説を書いていることは、誰にも言っていなかった。  小説家になりたい、などと口にできる環境ではなかった。   いつか必ずそうなる。そう思っていたが、社会人生活一年目の春は、追い立てられるように過ぎていく。六畳のアパートに帰れば、コンビニ飯を食ってシャワーを浴びて寝るだけの生活だった。  飲んだくれたちの、次第に意味不明になっていく大声と、どうにも慣れることのできないアルコールの臭気の中で、あのとき自分は下ばかり見ていた。  踏みつけられ、汚れた、桜の花びらたち。  自分は、こんなところで何をやっているんだろう。  再びそう思った。  酔っ払いたちの声を、背中で聞く。  ギャンブルと、セックスと、仕事の愚痴。誰かの噂話。   くだらないことにしか興味のない、くだらない人間たち。  こんな奴らの間に、自分の居場所はない。  あのころ彼は、本気でそう思っていた。  まるで、ありのままの自分を受け入れてくれる素晴らしい人達の住む世界が、世界のどこかにあるとでも言うように。自分の座るべき椅子が、ずっと空席のまま、どこかに大切に守られているとでも言うように。  公園を照らす赤っぽいライトの中で、舞い落ちる花びらはただの黒い影でしかなかった。彼は花を見なかった。星を探した。  見上げた空は雲に覆われていて、街明かりを照り返して鈍く光っていた。   彼の世界は、隙間なくそんなものに取り巻かれていた。              
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