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倉庫で二人っきり
「もう、俺たち、終わりになるのかな」
夫は私にそんなことを言ってきた。
私はその投げつけられた言葉に対して、なんの返事もできなかった。
ただただ悔しい気持ちでいっぱいになってしまった。
そして無言で、一人寝室に入っていった。
悲しかった。
私ではなく、橘をとるんだ。
夫の言葉が頭に浮かんできた。
終わりになるのかな……。
原因は夫が作ったはずだ。
それを、「終わりになるのかな」なんて疑問形の言い方はずるいと思う。
自然に終わりになるわけではない。
終わらせようとしているのは、夫なのだ。
この夜、私はほとんど眠ることができなかった。
眠らずに一人、暗い天井を眺め続けていた。
※ ※ ※
翌日、夫とは一言も私と会話を交わさなかった。
朝起きると、夫は鼻歌を歌いながら牛乳を飲み、家から出ていったのだ。
この状況で、わざとらしく鼻歌を歌うなんて。自分は平気ですよと見せつけたいのだろう。
職場ではあの女と会えるのだから、さぞ嬉しいんだろう。
ほとんど眠れなかった私だが、目は冴え続けている。
普段と同じように出勤し、デイサービスの職場ではいつもと変わらぬように入浴介助の仕事に汗を流した。
午後、セロテープを取りに事務倉庫へ行った時だった。
「杉並さん」
そう声をかけてくる人がいた。
聞き慣れた声。
ユウくんだった。
薄暗い倉庫で、ユウくんと二人っきりになった。
「杉並さん、昨日はありがとうございました。そして失礼なことをしてしまい申し訳ありませんでした」
「失礼なこと?」
「関係のない杉並さんを巻き込んでしまって、反省しています。ミスズのお母さんと話をしたいばかりに、ミスズそっくりな杉並さんを連れて行ったのですから」
「いいわよ、そんなこと。私もユウくんにはいろいろ相談に乗ってもらっているんだし」
私はこう自分に言い聞かす。
そうなんだよね。
ユウくんは私に興味があったわけではないんだもんね。
ユウくんは亡くなったミスズちゃんに私が酷似しているから近づいてきただけなんだから。
でもユウくんも落ち込んでいたな。
ミスズちゃんの死因が薬の飲み間違いだと聞かされたんだから無理もない。
死ぬほどの量を飲んでしまうなんて……。普通に考えたら、ミスズちゃんは故意に飲み間違えたとしか思えないのだから。
つまり、ミスズちゃんは間違いなく自殺したのだ。
あの時に聞こえた言葉は何だったのだろう。
(ユウを救ってあげて……。ユウを私から開放してあげて……)
「ユウくん、あなたは早くミスズちゃんのことを忘れなければだめよ」
私はあえてきっぱりとした口調で言った。
それが頭の中で聞こえてきた声の答えだと思ったのだ。
一日も早く、ミスズちゃんのことを忘れて、いや忘れられないのなら過去の思い出にして、新しい一歩を踏み出していかなくては。
そう思って私は言った。
「ミスズちゃんを忘れるためには、彼女にそっくりな私と、これからはあまり話などしないほうがいいと思う。私もこれからは夫の相談なんてあなたにしない。あなたももう、私との距離をとってミスズちゃんのことを考えないようにして」
「……」
「今日でもう、二人で話すのは終わりにしましょう」
ほとんど寝ていない私は、逆に冴えきってしまっている頭でそう言った。
ごめんねユウくん。
私、ミスズちゃんの代わりにはなれないから……。
「わかりました」
ユウくんは残念そうな顔をした。
「でしたら、最後に……」
「最後に?」
「ここでお別れのキスをしてもいいですか?」
ここで?
この薄暗い倉庫の中で?
でも、それでユウくんがミスズちゃんのことを忘れるきっかけになるのならそれも良いような気がした。
「ミスズちゃんと、そして私とのお別れのキスよ」
気がつくとそう返事をしていた。
ユウくんが私に近づいてくる。
今日は酒臭くないからね。そんな雑念がわいてきた。
顔が近づいてくる。目をつぶる。
こんな時、倉庫に誰か入ってきたら最悪だ。
仕事を辞めなくてはいけなくなるようなことだ。
でも神様はそんなことを望んではいないようだった。
ユウくんの唇が私の唇に触れた。
前よりも長い時間、触れ続けていた。
ユウくんの鼻から微かに呼吸する音が聞こえた。
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