橘からの電話

1/1
前へ
/20ページ
次へ

橘からの電話

 倉庫でユウくんとキスしてから、私たちは何事もなかったかのように仕事をした。  眠っていない私の頭は、ずっと冴えたままでいる。  もうこれで、何もかもきっちりと整理をしよう。  夫の浮気についても、ちゃんと向き合っていかなければならない。  ユウくんとの小さな関係も、今日でもう終わりにしなければならない。  お別れのキスをしてからというもの、約束通りユウくんは私に何も話しかけてこなくなった。  これでいいんだ。  ユウくんは、ミスズちゃんの亡霊を私に見ていただけなのだから。  私は、ミスズちゃんの代わりにはなれない。   ※ ※ ※  仕事を終えマンションに帰る。部屋に入っても誰もいない。  きっと、子供がいれば、少しは気が紛れたのかな。  そんな思いが浮かんできた。  子供、一時期はあんなに欲しかったのだけれど、夫との関係がこうなってしまった今はいなくてよかったと思っている。 「本当によかった」そう小さくつぶやいてみた。  電気を付け、ぐったりと椅子に座っているときだった。  静寂を壊すけたたましい音が鳴った。  何かと思えば私のスマホだった。  知らない番号だったので、無視を決め込みそのまま放っておく。  かなり長い間呼び出しが鳴り続け、ようやく切れた。  切れたのもつかの間、今度は家の固定電話が鳴りだした。  なんだろう?  怖くなる。  けれど、何か緊急の電話かもしれない。  そう思った私は、思い切って受話器を上げた。 「あっ、杉並さんのお宅ですか?」  女性の声だった。 「はい」 「私、橘というものです」  たちばな。  あの、夫の不倫相手の。 「サキさんですか?」 「ええ」 「拓さんから聞きました。サキさんが私と拓さんの関係を誤解していらっしゃるって」  誤解?  相手の言葉が瞬時には理解できず、何も答えられない。 「誤解なんです。私と拓さんの間にはやましいことなど何もないんです」  拓さんだって。  もうその呼び方だけで、普通でない関係だと想像できてしまう。 「私と拓さんは、あくまで仕事だけのお付き合いなのです。ですからそれだけをお伝えしようと思い電話させていただきました」  夫はさっそく私のことを橘に相談したってことか。私の携帯や家の電話番号まで知らせて。  もしかして、この電話にしても、スピーカーで夫が一緒に聞いているんじゃないかと疑念が湧いてきた。  そんなことを考えていると、私の頭の中の何かが切れた。  頭の中で、ゴムが切れるような音がした。 「私、知っているのよ。夫が毎週金曜日に橘さんの部屋に通っていることを」 「……」 「訴えられるのを恐れて、そんな見え透いたことを言っているのでしょうけど、何もかも分かっているんですから」 「……」  沈黙が流れた。  そして、沈黙が破られた。 「私の部屋に拓さんが来てたとしても、やましいことをしている証拠はあるのですか?」  冷たい声だった。  もうこれ以上は無理だった。私は何も答えないまま、受話器を置いた。  部屋の中が、また静かになった。  テレビでもつけよう。  リモコンのスイッチを押し、電源を入れる。  そして、ぐったりと椅子に座り込む。  なんだかおかしい。  さっき頭の中でゴムが切れる音がしてから、何かが違っている感覚になっている。  もう、夕食をつくる気力など残っていなかった。  寝よう。  そういえば、昨日はほとんど眠れなかった。  さっさと寝て、明日の仕事に備えよう。  そう思った私はシャワーだけ浴びると、そのまま自分の部屋に布団を敷いた。  でも、布団に入っても目が冴えてしまい全く眠れない。  寝なくちゃいけない。そう思うほど、目は冴えてくる。  二日連続で眠れないなんて……。  夜中になり、夫が帰ってきた。  私は寝たふりをしながら、夫の足音や扉を閉める音を黙って聞いていた。  二日間、一睡たりともしていないが、まったく眠くはならなかった。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

64人が本棚に入れています
本棚に追加