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簡単な離婚
あの夜のことがあってから、私は何度かユウくんの部屋に行った。といっても、深い関係になったわけではない。
私はあくまでミスズちゃんの代わりにすぎない。話し相手になってあげるだけで充分なのだから。
日曜日、ユウくんと一緒にお昼ごはんを食べ、家に帰ると、いるはずのない夫がいた。日曜出勤すると言って出掛けたはずなのだが。
私が帰ってくると、夫は待ちかねたように立ち上がった。いつもは私に対して無関心だった夫だが、今日は明らかに様子が違う。
「サキ、そこに座ってくれ。重大な話がある」
「なによ」
私は夫と向かい合って座った。
しばらくの間、無言の時間が流れた。夫は冷酷な目でこちらを睨みつけると、ようやく静寂を破るように話し始めた。
「お前が不倫をしていることは分かっているんだ。お前が男と会っている写真や動画がここにある」
写真? 動画?
一瞬この男が、何言っているのか理解できなかった。
私のことを調べていたの?
そういうことだ。私の行動を調べていたのだ。夫も仕事をしている身だ。きっとわざわざ興信所に依頼して調べたのだろう。
「本来なら、お前とその男に慰謝料を請求することもできるのだが、寛大な俺はそこまでするつもりはない」
寛大な俺と言った時、私は思わず吹き出しそうになった。
甘くみないでほしい。肉体関係を証明できる証拠がないから慰謝料を請求しないだけなのだ。
だいたい私とユウくんの間に肉体関係など実際にないのだから。そんな証拠など出てくるわけ無いし。慰謝料払うなら、当然夫の方なのだ。それを俺は寛大だと言い出すだなんて。
「もう俺たちは終わりだ。離婚しよう」
夫は簡単にそう言った。
「私の方は不倫なんかしていないけど、あなたが離婚したいなら別にいいわよ」
私もそう答えたが、あることが心に残った。
両親に心配をかけてしまう……。
それだけが心残りだった。それ以外には何もない。
「じゃあ、さっそくだけどこの書類にサインをくれないか」
あまりに素早い行動だった。もう離婚届まで準備して待っていたということか。
つまり、よっぽど別れたかったのだ、私と。
橘のことがそんなに好きなのか。
あんな失礼な電話をかけてくる女、どこがいいんだか。
私は離婚届を眺めながら必要なところを記入していく。
子供がいないと、こうも簡単に離婚できるのか。
「ああ、印鑑は実印でなくても大丈夫だから」と夫。
私は用意されていた認印をその場で押した。
ちゃんと証人の欄も書かれている。用意周到とはこのことだ。
証人は夫の両親だった。
夫の両親の文字を見た時、二人が書類にサインをしている姿が目に浮かんできた。
私が悪者になっているんだろうと思った。
夫の両親からしたら、私は不貞を働いたひどい女なのだろう。
でも、どう思われていたって別にいい。
事実は違うのだから。神様はちゃんと見てくれているのだから。
「明日、半休を取っているんで、提出しておくよ」
夫はそう言いながら離婚届を手にした。
「これでお互い、変な気を使うこともなくなるね」
どういうこと?
これであなたは、自由に橘と会えるということ?
あなたはそうだろうけど、私は違うのよ。
私は決めていた。
もうユウくんと会うのは控えようと。
ユウくんは私に会いたいわけではないのだから。
ユウくんが会いたいのは私ではなくミスズちゃんなのだから。
あの声の通り、ミスズちゃんから彼を開放してあげなくてはいけない。
私と会っていたら、ユウくんはいつまで立ってもミスズちゃんの亡霊を追いかけることになる。
もう私なんかとは会わずに、ミスズちゃんのことも忘れて、ユウくんには新しい彼女を見つけてもらわないと。
何もかも精算する良い機会になったわ。
私は心の中でそうつぶやいた。
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