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香水
夫の浮気現場を目撃してしまった日から、私は夫とは別の部屋で寝るようになった。とても一緒の部屋で寝られるような気分ではない。私は何も話し合うことなく、急に部屋を変えて寝始めたのだ。
そんな私の変化に対して、夫は何も言ってこなかった。
夫は、私が浮気現場を見たことについては、何も知らない。私からは何も言っていないからだ。けれど、何か良からぬことがあったとは感じているはずだ。
しかし、何も言ってこない。
部屋を別にして寝ることについて、きっと夫はホッとしているに違いないと思えてきた。
夫は私より先に家を出て会社へ向かう。この男、ダイエットのため朝はコーヒーだけ飲んで出かけるので、食事の準備はいらない。
ありがたいことだ。
そのため、ゆっくりできる。
それはそうと、あの夜のこと、つまりはユウくんとのキスがあってから、私は職場に香水をつけて行くようになった。
介護の仕事では、お年寄りと接することが多いため、香水はつけないほうがいいとされている。
けれど。
わずかな楽しみ、つけすぎないように注意すればいい。
そう思って、香水をつけるようになった。
今日は日曜日。
ユウくんとの約束の日。
亡くなったユウくんの恋人、ミスズちゃんの家に行く日だ。
夫は休日出勤で出ていった。本当に休日出勤なのだろうか。あの女、橘と会ってるんじゃないのかなと疑念が湧く。
けれど、問い詰めることはしない。
なぜ、私は夫に対して何も言わないのだろうか。
自分でも、その複雑な思いを整理することができていない。
私は電車に乗り、ユウくんとの待ち合わせ場所に向かった。
座席のとなりに五歳くらいの男の子がお母さんと一緒に座っていた。
「おとなしくしてなさい」
母親の声が聞こえる。
子供……。
ほしかったけど叶わなかった。
婦人科で診てもらい、夫の精子には異常がないことが判明した。不妊治療も行ったが、ホルモンのバランスが崩れるだけで、何も良いことはなかった。
でも、今となっては子供ができなくて良かったのだ。
夫との関係が破綻した状態で、子供がいたらと思うとぞっとする。
電車で十五分ほど揺られ、目的の駅についた。
改札を出たところで、すでにユウくんは待っていた。
私服を着た、スラっと背の高い男の子がはにかんでこちらを見ている。私と目が合うと、軽く右手を上げてきた。
「お待たせ」
私はそう言いながらユウくんに近づく。
今日も、下品にならない程度に香水をつけている。
「休みの日に、こんなことに付き合わせて申し訳ありません」
ユウくんのいつもの笑顔。あの夜のことがあったからだろうか、ユウくんのちょっとした表情が気になってしまった。
相談員という職業柄か、人と話す時自然と笑顔が出てくるようだ。
この笑顔があるから、職場で人気者になれるのだろう。
ユウくんの笑顔を見ていると、私まで自然に笑顔になってしまう。
「いいのよ。休みの日でも、何も予定なかったんだし」
そう言ってから、私は電車の中で考えていた疑問を聞いてみる。
「ミスズちゃんの家にはよく行くの?」
「いえ、亡くなってから行くのは二度目です。一度目は追い返されました」
「二度目? 追い返された?」
ユウくんとミスズちゃんの家族との関係は、悪いということなのか。
では、今日も追い返されるかもしれないのか。なんだかややこしい感じがする。
そんなややこしい訪問に、私を?
「どうして私を連れて行くの? 女性なんか連れてきたら相手の家族、びっくりしない?」
「ええ。でも、ミスズに杉並さんを会わせたいんです」
どういうことだろう?
女性なんか連れてきたら、あの世にいるミスズちゃん、悲しがるのでは?
「それに」
ユウくんは続ける。
「ミスズの死んだ理由を知りたくて。杉並さんと一緒だったら、ミスズのご両親も教えてくれるかもしれないと思って」
ますます訳がわからない。
どうして私と一緒だったら、ご両親がミスズちゃんの死んだ理由を教えてくれるの?
そんな重要なこと、赤の他人の私の前で話してくれるの?
そんなことを考えていると、ミスズちゃんの家に到着した。
手土産のお菓子を持ったユウくんが表札の下のインターホンを押す。表札には品川と表記されている。
しばらくすると、中から上品そうな女性が出てきた。
年齢から、きっとミスズちゃんのお母さんだろう。
お母さんはユウくんを見て、
「あら、あなたは」と声を出した。
そして、視線は私に向かう。
「こ、この人は……」
お母さんは目を見開き、あきらかに驚いている表情で私を見つめた。
「ミスズ……」
おかあさんは私に向かって間違いなくそう言ったのだった。
どういうこと?
なぜ私を見て、ミスズと呼ぶの?
私は訳も分からず、立ちつくしていた。
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