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はじまり
最悪だった。
どうしてあんな男と結婚なんかしてしまったのだろう。
※ ※ ※
ここは介護の必要なお年寄りが日帰りでサービスを受けるデイサービスセンターである。介護保険で要介護と認定された人たちがやってきて、昼食を食べ、お風呂に入り、運動をして家に帰っていく場所だ。
そんなデイサービスセンターの昼休み。
休憩室でお弁当を食べていると私はあることに気がついた。
デイサービスでは交代制で昼食をとる。
たまたまなのだが、休憩室でデイ相談員の男の子と二人っきりになっていた。
「ユウくん、今日ひま?」
私はその男の子に声をかける。
「えっ?」
ユウくんは私を見た。
名前の通り、優しそうな男の子。
みんなにかわいがられて、私たちから「ユウくん」と呼ばれている。
彼、まだ二十六歳だからね。
ちょっとカワイイ男の子にふざけて声をかけてみたつもりだが、実際話してみるとこっちまでドキドキしてしまった。
私、今更何を意識しているのだろう。
三十過ぎた既婚の私に、声をかけられても嬉しくないわよ……。
「杉並さん、どうかしたんですか?」
「あ、うん。ちょっと相談に乗ってほしいことがあって。あなた相談員でしょ」
どうせ相談なんか乗ってくれないことはわかっている。
「ええ? 相談員といってもお年寄り専門ですが」
真面目に答えるユウくん。
私はパートの介護職員。
介護職員というのはけっこうな重労働で、しかも人間相手の仕事なので神経も使う。特に限られた時間で多くの人をお風呂に入れなければならない入浴介助は、へとへとになる業務だ。つまり介護職員とは体力が物をいう仕事であり、そんな肉体労働を私はやっているのだ。
「何かお困りごとですか? 僕でよろしければいくらでも相談に乗りますよ」
「いいわよ。冗談よ。独身のあなたが理解できるような話じゃないから」
私は笑ってごまかした。
なんだか、真面目に相談に乗るなんていわれると、こちらのほうが困ってしまう。
単にからかうだけのつもりだった話が、なんだか変な方向にいってしまった。
仕事が終わって家に向かう。
独身のころなら、これから一人の時間を楽しめるのだが、今はそうはいかない。帰りたくもない家に向かわなければいけない。
ああ、誰かと話したい。
昼間ユウくんに、相談に乗って欲しいと言ってしまったけど、あながち冗談ではないのよね。
本当に、いろいろ話してストレスを解消したいと思っているから、あんな冗談を言ってしまったのだろう。
ああ、誰かと話してストレスを解消したい。
でも、みんな家庭持ちだから。
それぞれ忙しい身だし。
だけど、家に帰っても、あの男がいるだけ。
駅に向かい歩いていると、なぜだか足が進まなくなる。
私は道の真ん中で、ふと立ち止まってしまった。
「大丈夫ですか?」
ぼんやりと立ち尽くす私に、そう声をかけてくる人がいた。
あれ?
私はその人を見る。
私に話しかけてきたのはユウくんだった。
「ユウくんどうしたの? 仕事は?」
相談員の仕事は、けっこう忙しい。なので、ユウくんが定時に帰っているところなど見たことがない。
「ええ。なぜか今日は早く帰れたんです」
「デートでもあるの?」
「まさか」
ユウくんは笑う。
なかなかの笑顔だ。
「それより杉並さん、立ち止まって考え事をしているようでしたけど」
ユウくん、まさか私のことを気にして、仕事を早く切り上げてくれたの?
まさか……。
ああ、ばからしい。そんなことを期待してしまう自分がはずかしい。
私なんかと話すために早く仕事を切り上げたなんてありえない。
そんなこと、あるわけない。
「僕でよければ、相談に乗りますよ」
え?
もしかして気にしてくれている?
私のことを心配してくれているのかも。
「でも、私の家庭のことだから。ユウくんに話すのはずかしい。それにみんなの笑いものになるのも嫌だし」
「相談員には秘密保持という約束事があります。杉並さんの話すこと、秘密にしておきますよ」
「秘密?」
「ええ」
秘密か。
ちょっとドキッとする言葉だ。
本当に秘密にしてくれるなら、ほんのちょっと話してみてもいいのかな。
日頃、誠実にお年寄りに対応しているユウくんの姿が浮かんできた。
この人なら、信用できるかも。
「じゃあ、三十分だけ付き合って。私の話を聞いてくれる」
口にするとなぜかドキドキした。
相手は年下なのに。
「わかりました。あそこの店で話をしましょう」
そう言ってユウくんは、またあのまぶしい笑顔を向けてきた。
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