「red season ~秋~」(2)

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「red season ~秋~」(2)

 二年ほど前に初めて先生のところに原稿を受け取りに行った時、先生は出かけていて、携帯に電話をしたら、もう少しで戻るから玄関で待っていてくれと言われて、俺は先生が住むマンションの部屋の前に立っていた。  すぐ帰ると言った割には十五分くらい過ぎても帰ってこず、俺はなんとなく取ってきたばかりのサッカーの試合のチケットをポケットから取り出して眺めていた。  試合がある日は休めるだろうか。土曜日だから微妙なところだ。自由席しか取れなかったからなるべく早めに行って並んでいたいのだけど。まあいざとなったら、試合開始ギリギリでもどこかにもぐりこめるだろう……。  なんて考えながら顔を上げると、目の前に先生がいた。 「あ、お帰りなさい」  俺が慌てて言うと、先生はじろりと俺の顔を見てから俺の横を通り過ぎる時に俺が手にしていたチケットを覗き込んだ。あ、と思って俺はチケットをしまおうとしたのだが。  先生はじろりとまた俺の顔を見た。そして、 「好きなのか、サッカー」  とぶっきらぼうに言った。 「あ、はい」 「そのチームが好きなのか」 「あ、はい」 「いつから?」 「え……っと、ほとんどJ発足当時から……です」  俺がこたえると、先生はもぞもぞと着ていたジャケットのポケットから取り出したものを俺の目の前に出した。  見ると、俺が買ったのと同じ日の、同じ試合の、同じチームの自由席のチケットだった。  俺は驚いて先生を見た。先生はにこっと笑った。笑うと別人みたいに親しみやすい雰囲気になった。思わず緊張がふっととけて、親近感をもってしまった。 「仲間だな」  差し出された手と握手をした。 「今日発売だったこのチケット、取れなくって諦めかけていたら譲ってくれるって人がいて。今、受け取ってきた。相手が遅れてきたものだから、待たせてしまった。ところで」  と先生は玄関の鍵を開けながら、俺に言う。 「僕は自由席は初めてなんだ。いつもは指定席で行くんだが、今回は取れなかったから。自由席は並ばないとダメなんだろう?」 「そうですね、みんな並んでますね。まあ一人か二人くらいだったら、あまり並ばなくてもどうにかなることもありますけど」 「君はいつも自由席? いつも並んでるのか?」 「大体自由席ですけど、時間的に並べないことが多くて。たまにほとんど試合が見えないようなところになっちゃうことがあります」 「えっ、せっかく行って試合が見づらいんじゃやってられないな」 「早めに行っても、常連さんのグループに席取りされてたりするんです。運がよければいいところにいけますけど」 「君は何時ごろに行くんだ? あ、他の仲間と一緒に行くのか」 「もしかしたら仕事かもしれないので、ギリギリになっちゃうかもしれないです。行くのは一人です。前は一緒に行く友達がいたんですけど、そいつはJ2に降格した時にサポをやめました」 「ふーん……」  先生は俺を見て、にやっと笑った。 「僕も今回は一人で行くんだ。じゃあ、一緒にどうだ? 僕はその日は仕事を入れないようにするつもりだから早めに行ける。もしも君が仕事なら、先に並んでるよ」 「えっ、いいんですか?」 「いいよ」  先生はそう言って、また笑った。  俺はなんだかウキウキした気持ちになった。試合のことを考えただけで気持ちが熱くなってくる。 「勝つといいですね。いえ、勝たせましょう、俺らのサポートで!」  先生は熱い口調の俺を楽しそうに見ていた。  そして……。  試合の日、案の定俺は出勤になってしまった。先生は早めに行って、一人で並んでいてくれた。  携帯電話で連絡を取り合い、俺が試合の一時間半くらい前にスタジアムに行くと、先生は、 「いい場所、とれなかったぞ」  仏頂面で試合が見にくい場所に立っていた。立つ場所が確保できただけでもいい方だ。俺なんか、試合前の列整理があるまで立っている場所もなかったことがある。 「席、あんなに空いてるじゃないか。後からくる奴の分まで多めに席をとるんじゃないよ!」  先生は不機嫌だった。どうなることやらと思ったが、試合が始まると先生は他のサポーターと声を合わせて熱く応援を始めた。もちろん俺も大声を出して応援した。  勝った。いい試合だった。ゴールが決まった時には先生と俺はハイタッチをして喜んだ。 「楽しかったな」  と試合後に先生は言った。 「自由席は初めてだったけれど、応援も楽しいもんだ」 「熱くなりますよね」 「君は……、J2降格が決まった試合の時もスタジアムにいたのか?」 「あ、はい。俺はなんてゆーか、降格もショックだったんですけど、選手たちが、いつもプレーで俺を励ましてくれていた選手たちが挨拶もなしにうなだれて控え室に戻っていっちゃった姿を見たことの方がショックでした」 「うん」 「力が抜けましたけど……、でもまた選手たちが出てくるまで待ってましたけどね」 「みんな待ってたよな」 「先生もあの時いたんですね」 「ああ。J1昇格が決まった試合の時は?」 「もちろんスタジアムにいました! 俺が忘れられないのは、うちの選手が抜かれてフリーになった相手選手がゴールめがけて突っ走って行った時、その選手を止めようとして追いかけていった選手の必死の姿です」 「ああ……、結局PKになっちゃったけど」 「でも入れられませんでしたよ!」 「だな」 「あー、ゴールが決まった瞬間……、あの試合は感動的でした」 「で、去年のカップ戦の決勝は?」 「もちろん行きましたよ! それがですね、J2降格の時にサポやめた友達からいきなり連絡があって、行きたいっていうんですよ。チケット二枚とってあったんで一緒に行きましたけど」 「ふーん……」 「でも決勝の後、負けた後ですけどね、ヤツは『やっぱり所詮この程度だよな』とかって言ったんですよ! ムカつきました。あんなヤツとは二度と一緒に行きません。それにしても決勝まで行って負けるってのがあんなに悔しいことだって、初めて知りました。準優勝だっていい成績だと思うんですけど、全然嬉しくなかったですね。  で、帰りながら携帯からサポーターのサイトを覗いたんです。無理矢理前向きになろうとしている書き込みもたくさんあったんですけど、覚えてるのは『俺はなんでこのチームのサポーターなんだろう』って落ち込んで後ろ向きになっていた書き込みです。思わず、『この悔しさを無駄にしたくない気持ちはみんな一緒だ!』と書き込みました!」 「……今年はタイトル欲しいな」 「そうですね、はい!」 「でも、もう並びはコリゴリだな」  先生はその後、指定席がとれないとスタジアムには行かなかった。俺は一人でも自由席しかとれなくても時間がとれる時は行ってるけどね。  彩菜は今夜も会社帰りに疲れた様子で俺の部屋にやってきた。  今までは聞かなかったけど、今夜は初めて、 「仕事、きついの?」  と聞いてみた。彩菜は少し間をあけた後、声もなく、こくんと頷いた。でもすぐに顔を上げて、 「ううん、大丈夫。そんなに大変なわけじゃないから」  と否定した。 「ムリすんな」  俺はポンと彩菜の頭をたたいた。毎日こんなに遅くて休みもないなんて、きつくないはずがない。仕事内容が軽いとか重いとかいう問題じゃなくて、やはり人にはそのことから離れて気持ちを切り替えられる適度な休養が必要なのだと思う。  彩菜は泣きそうに顔をゆがませ、そして話した。会社での人間関係。一緒に仕事をしている女性のこと。  全部初めて聞く話だった。きついだろうに「わたしは大丈夫」と自分にも言い聞かせるように言う彩菜の肩が小さく震えていた。  気のきいた台詞ひとつ言うことが出来ず、俺は彩菜の震える肩を抱きしめた。「わたし、頑張れそう」と彩菜は泣き笑いをした。
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