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「red season ~秋~」(3)
小一時間すると彩菜はいつものように帰っていった。泊まっていけば、と言っても彼女はきっと帰っていくだろう。彼女には帰る家があるから。待っている家族がいるから。
「毎日遅いでしょう? 親も心配してるの。身体のこととか。で、心配かけたくないわたしとしては元気な様子で帰宅するの」
送っていった駅の改札の前で、
「裕弥の実家はどこなの? 遠いの?」
と彩菜は聞いてきた。
「いや、そんなに遠くはないけど。電車でも一時間くらいかな」
「ふーん……」
「あ、電車くるよ」
「ほんとだ!」
彩菜は急いで改札を抜けていった。
「送ってくれてありがと! またね!」
と言い残して。
俺は彩菜を乗せた電車が去っていくのを見届けてから、アパートに向かって歩き出した。
彩菜の背景にしあわせそうな家族が見える。彼女は親に愛され、愛情に飢えることもなく大切に育てられてきたのだろう。家族それぞれがお互いを思いあう、そんなあたたかい中で。
そんなことを考えていたら、割り切っているはずなのに、なんとなく物悲しい気持ちになった。
俺は母親の顔を知らない。父の話によれば俺が赤ん坊の時に出て行ってしまったのだと言う。俺は親戚に預けられ、小学校入学と同時に父の元に帰された。
俺は一人っ子だったので、大きな家に父と二人で暮らしていた。女手がないのに誰が家事をしていたのか。
俺が小学校から帰ると食卓の上にいつも俺の分だけの夕食が用意されていた。時にはおやつまでも添えられて。
家の中はきれいに片付き、洗濯物はきちんとたたまれ、そしていつも、ぷんと香水の匂いがした。
女の人が僕らが留守の間に出入りしてるんだ。
俺は子供心にそう理解していた。それが誰なのかまでは深く考えなかった。父の知り合いか、それともお手伝いさんでも雇っているのかと思っていた。
父は毎日帰りが遅かった。
仕事が忙しいんだろうな。夕食はどうしているんだろう?
疑問に思い聞くと、外で食べているからいいんだ、と父は素っ気無くこたえた。
俺は夜遅くまで働いている父がかわいそうだと思った。大人って大変なんだな、と。
ある晩、俺は父の帰りを待っていた。父は先に寝ているように俺に言っていたが、たまには起きていて「お帰りなさい」を言ってあげようと思って。
しかし実際俺はさびしかったのだ。父と俺のあいだにはほとんど会話がなかった。朝食は向かい合い、黙々とトーストをかじった。行ってきますと言うと、ああ、と父は短くこたえる。俺の顔を見ようともせずに。
俺は例えば父とキャッチボールをしたり、いろいろな話をしてもらったり聞いてもらったりしたかった。俺には父にかわいがられた思い出というのがない。俺にとってたった一人の家族だったのに。
自分からきっかけをつくろうと思ったのだ。父と会話をするきっかけを。いつも父の帰りを待たずに眠っている俺が迎えてあげたら、父はきっと喜んでくれるに違いない。
俺が「お帰りなさい」と言うと、父は驚き、そして「なんだ、寝ていなかったのか」と言う。俺は「お父さんを待っていたんだよ。毎日夜遅くまで大変だね」。父は笑いながら、
「仕事だから仕方がないさ」
そうそう、疲れている父のためにコーヒーをいれてあげるんだ。父は俺がいれたコーヒーを飲みながら「学校はどうだ?」と聞く。俺は「いろいろあるけど、まあまあだよ」なんて言いつつ話し始めよう、おもしろいエピソードの数々を。会話ははずみ、二人は笑い転げる……。
一人で想像に微笑んだ。
父が帰ってきた。
俺は足音をしのばせ玄関に向かい、柱の陰からひょっこりと顔を出した。
「お帰りなさい」
父は驚き、
「なんだ、まだ寝ていなかったのか」
父の言葉に続き、俺は用意しておいた台詞を言った。とびっきりの笑顔で。
「お父さんを待っていたんだよ。毎日夜遅くまで大変だね」
ところが、父の反応は想像していたものとは違った。
父は、不愉快そうに、顔をしかめた。
「何故待っていた? 待っている必要なんてないんだよ」
笑顔が凍りついた俺の横を通り過ぎた父の身体から、いつも嗅ぎなれた香水の匂いが、ぷんとした。
父は夜遅くまで働いていたのではなかったのだ。たぶん仕事を終えると女のところに行き、そこで食事を済ませ、何時間かを過ごしていたのだ。
そんなことをするくらいなら、女も一緒に家で暮らせばよかったのに。どうせ家事……、俺の食事の用意までさせていたのだから。母ももういなかったのだから。
もしかして父の俺に対する思いやりだったのだろうか。それとも女と二人の時間を俺にジャマされたくなかったのだろうか。父の気持ちはわからない。
父はいつから女と付き合っていたのだろう。母が出て行った原因となにか関係あるのだろうか。
母は俺を産んだことを後悔しただろうか。
このことを知った時はショックだったが、後に俺は父のこの行動をありがたかったと思うことになる。
俺が高校に進学した年に、父は嗅ぎなれた香水の匂いがする女と再婚したのだ。父がその女を家に連れて来て、二人が並んで俺の前に立った時、俺は感じた。二人の世界に俺が入っていく隙間なんてないってことを。
俺は家を出て一人暮らしをすることを父に提案してみた。父は喜んで賛成した。学費と生活費は出してもらっていたが、なるべく俺は自分の力でやっていきたかったので、アルバイトで小遣いを稼いだ。
そして俺は父が俺の高校進学まで再婚を待ってくれたことをありがたかったと思ったのだ。小学生や中学生で一人暮らしをするのは容易なことではなかったろうから。
初めてサッカーの試合を観にいったのは、同級生に誘われた時だ。一緒に行くはずの友達が行けなくなったからと、俺を誘ってくれたんだ。
一回行って、トリコになった。
チームは弱かったけれど試合はおもしろかったし、スタジアムの雰囲気や応援のすごさ。あんなに気持ちが熱くなり、魂が揺さぶられるような経験は初めてだった。目をつぶっても赤い旗がまぶたの裏に舞い、興奮してその夜は眠れなかったくらいだ。また絶対に行くぞと思った。
お金もあまりなかったから、いつも自由席で、バイト先で知り合ったヤツとスタジアムに通ってた。ちなみにこいつが、J2降格時に「俺はもういいや」とか言ってサポをやめた根性なしだ。
忘れられないのは、俺が利き腕の手首を体育の授業中にうっかり捻挫してしまった時のこと。
当時の俺はコンビニでバイトをしていて、捻挫していても出来る仕事はあるだろうとバイト先に行ったものの、やっぱり痛くて思うように動かせず、店長から「もう帰っていいよ。他の人で人数足りてるし」って言われて帰されて、時間が余ったから思いついてチームが練習しているところに見学に行ったんだ。
練習後に出入り口のところで出待ちをしてたら、選手が止まってサインをしてくれた。俺が使いにくい右手で必死にサインをしてもらうノートとペンを出して選手に差し出すと、その様子を見ていた選手が「怪我? 大丈夫?」と言ってくれて、サインをしてくれたノートを俺に返しながら「お大事に」って言ってくれたんだ!
憧れの選手にやさしい言葉をかけてもらって、俺は天に昇るほどの嬉しさだった。それでずっとこのチームを応援し続けるぞ!って心に誓ったんだ。
俺には家族も帰る家もなかったけれど、チームを応援する思いが心の支えになっていたように思う。選手たちと共に戦うスタジアムが俺の居場所だった。スタジアムに行けない時でも心はスタジアムに飛んでいる。勝った時には勇気をもらい、負けた試合の時にはくじけるものかと拳を握りしめた。
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