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「white season ~冬~」(1)
三十日の今日は今年の仕事納めだった。
彩菜はいつも通りに帰宅する前に裕弥の部屋に寄った。裕弥はその前日、二十九日が仕事納めだったという。
「お正月は実家に帰らないの?」
と聞くと、裕弥は短く「帰らないよ」とこたえた。高校生の時に一人暮らしを始めてから、一度も、お正月にさえ実家に帰っていないと言う。
「うちのお姉ちゃんもね、社会人になってからずっと一人暮らしだけど、ほとんど帰ってこないよ」
彩菜は言ってみたけれど、姉が帰ってこないのと、裕弥が実家に帰らないのは意味が違うこともわかっていた。でも裕弥は気を悪くするふうもなくやさしく微笑んで「ふうん」と言っていた。
いつも通りに駅まで送ってくれた裕弥と「良いお年を」と言って別れた。歩きながらずっとつないでいた手を離す瞬間、たまらなく切なくなった。彩菜が名残惜しくてつないでいた手を引っ込められずにいるのに、裕弥はさっさと手を引っ込めて、その手を左右に「ばいばい」というふうに振った。
家に帰ると電話のベルが鳴っていた。母親が奥から出てこようとしたので、
「わたしが出るからいいよ」
と彩菜は言って、受話器をとった。
電話をしてきたのは、久しぶりに話す姉の江奈だった。姉の電話を彩菜がとるのは珍しいことなので、彩菜が驚いたり喜んだりしているのに、姉は彩菜と同じ感情を持つ気配もなく「明日、帰るね。伝えといて」と用件を短く言って電話をきった。
彩菜は受話器を置いてから母親がいる居間に行き、
「お姉ちゃん、明日帰ってくるって」
と伝えた。
テレビを観ていた母親は振り向いて意外そうな顔をしたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「まあ、久しぶりねえ」
どこで聞いていたのか、父親が襖を開けて顔を覗かせた。
「江奈が帰ってくるって?」
「ええ、明日ですって」
「お姉ちゃんが帰ってくるの、何年ぶり?」
「二年ぶりくらいかしら。去年は帰ってこなかったし。電話はたまにきてたけど」
と言った後、母親は思いついたように手を叩いた。
「そうだわ、江奈が帰ってくるのなら、明日の夕食はすき焼きにしましょうか。江奈はすき焼きが好きだから」
「そうだ、そうしなさい」
父親がすかさず賛成する。彩菜はびっくりした。
「え? すき焼き? 大晦日にすき焼き?」
「もちろん年越しそばもゆでるわよ。だって、江奈が久しぶりに帰って来るんだし」
「すき焼きにしなさい」
なんとなく浮かれた様子の両親を見ながら、
「そうね、いいかもしれないわね。大晦日にすき焼きも」
彩菜は笑いながら言った。
大晦日の午後の早い時間に江奈は実家に帰ってきた。
両親が今年最後の買出しに出かけていたので、彩菜が一人で実家に帰ってきた姉を迎えた。
彩菜は姉の外見が変わったことに驚いた。
学生時代からずっと変わらないストレートの黒髪で、見るからに「才女」という感じだったのに、久しぶりに会った姉のヘアスタイルは肩より短いくらいで、前髪もふわりと額にかかっていて髪の色も明るくなっていて、まるでどこかで見たことがあるようなアイドルタレントのようだった。派手というのではないが、どこから見ても凛とした印象だった姉が、ふんわりとやわらかい女性らしい雰囲気になっていた。
「ただいまー」
という江奈に、
「お帰りなさい。お姉ちゃん、髪型変わったね」
と言うと、江奈は彩菜を見て、
「失恋して髪の毛切りました!」
と言った。
「え?」
彩菜がぎょっとしたような顔をすると、
「なんてねー」
江奈はニッと笑って、まず洗面所に向かい手を洗い、居間に入っていってこたつに足を入れた。
ぽつんと玄関に残されたようになった彩菜は慌てて江奈のいる居間に入った。江奈は昔からこんなふうに会話でもなんでもテンポが早い。やっぱり頭がいいから?と彩菜は前から思っていた。
「さぶい、さぶい。あれ? お父さんとお母さんは? あ、あとこれ」
江奈は持ってきた紙袋を彩菜に渡した。
「二人は買い物。これ、なに?」
「北海道みやげでーす。“白い恋人”」
「お姉ちゃん、北海道に行ってたの?」
「うん」
「旅行?」
「そう、うちの部署、年末はそれほど忙しくないんだよね。だから二十三日から二十五日まで有給休暇と休日を利用して行ってきた」
「クリスマスに? え……と……」
彼氏と? と言いそうになって言葉に詰まった。江奈に恋人がいるかどうか聞いたことはないけれど、ぶしつけに聞いていいものかどうかためらってしまった。そんな彩菜の心中を察してか、
「一人旅だよ。女三十歳クリスマス一人旅」
江奈はにっこり笑って言った。
“げえっ”と彩菜は内心思った。彩菜の感覚では考えられないことだったからだ。わざわざクリスマスに休暇をとって一人旅に出るなんて。しかしそれは姉らしいといえば、姉らしいと思った。
「変わってないねー、この家」
江奈はこたつに入ったまま、部屋を見回して言った。
きれいだな、と彩菜は姉を見て思った。姉はきれいになった。何か内面からにじみ出るやわらかい光のようなものを感じる。「お姉ちゃん、一人旅とか言ってるけど、やっぱり恋をしてるんじゃ……」となんとなく思った。
「北海道、どうだった?」
彩菜の問いに、江奈は部屋を見回していた視線を妹に向けた。
「よかったよ。でも寒かった。コロッケとかとうもろこしとかラーメンとか、おいしかった」
「へえ……」
「雪をね、この冬初めて見たよ。寒かったけどきれいだった。真っ白な雪に心が洗われるようだった」
「ふうん……」
彩菜が相槌を打ちつつ、言葉を続けようとした時、
「ただいまー」
と買い物を終えた両親が帰ってきた。
その晩の夕食は予告どおり「すき焼き」だった。すき焼きを食べながら、おそばも食べて不思議な感じだったけれど、久しぶりに姉がいる夕食の席は華やかな雰囲気に包まれていた。
子供の頃から優等生で快活な姉は、両親にとって自慢の存在だった。姉はよく喋りよく食べよく笑い、そんな姉を見る両親の様子はしあわせそのものだった。
彩菜は三人を目の当たりにしながら少しの疎外感を味わいながらも、やっぱり姉がいる夕食が楽しかった。彩菜にとっても江奈は憧れの存在だったのだ。
例年、両親は揃って初詣に夜から出かけていくのだが、今年は久しぶりに江奈が帰ってきたから出かけるのをやめると言い出した。
江奈はそんな両親にまるで子供に言い聞かせるように、「わたしは何日かここにいるから行ってらっしゃいよ」と勧めた。江奈は両親が初詣に出かけるのを楽しみにしているのを知っていたのだ。
江奈に説得されて、両親は出かけていった。自慢の娘に送り出される二人はどこか誇らしげだった。
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