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「white season ~冬~」(3)
裕弥は、今日が仕事納めだという彩菜をいつも通り駅まで送っていった。
彩菜は裕弥がクリスマスにプレゼントした白いマフラーをしていた。色白な彩菜に似合うだろうと思って買ったのだが、白は汚れが目立つから失敗だったかな、と買ってから思った。でもマフラーは彩菜にとても似合っていた。
裕弥は彩菜からのプレゼントの「手編み風」セーターを着ていた。ところどころ雪の結晶の模様が編みこまれている。
「本当は自分で編みたかったんだけど」
彩菜は時間がなくて手編みが出来なかったと謝っていた。でも彩菜が選んでプレゼントしてくれたセーターを裕弥はとても気に入っていた。
「良いお年を」と言って駅で別れた彩菜は、なんだか泣きそうな笑顔だった。
そういえば……、と裕弥は思った。
会社で彩菜と同じ仕事をしていた事務の女性が旦那さんの転勤で辞めることになったと彩菜は言っていた。会社はきっと新しい社員を募集することになるだろうと。辞める女性は今まで彩菜一人に残業を押し付けてきた勝手な人だったようだから、これからは少しは彩菜も楽になるかもしれない。
いつも疲れた様子の彩菜を見ている裕弥にとっても、それは嬉しいことだった。
部屋に向かって歩いていると、コートのポケットに入れておいた携帯電話が鳴った。橘先生からだった。
『年末年始の予定は?』
またいきなり前置きなしに本題に入る。
「あー、今のところ未定です」
『勝ち抜いてたら元日には決勝だったのにな』
橘先生は二人が応援しているチームが早々に負けてしまったサッカーの大会について言った。勝ち進んでいれば元日は決勝だったのだ。
「そうですね。元日の予定を空けておいたのに」
橘先生が笑ったような気配がした。
『来年こそ……、いやまだ年末だから、再来年こそ元日にスタジアムにいよう』
「はい」
『ところで』
橘先生はちょっと間をあけてから、
『もしも予定が空いてるようなら、うちに遊びに来ないか』
「え?」
『僕の実家の両親は海外にいるから、僕はここでお正月を過ごすのだが』
「はい」
『おせち料理も用意するから』
裕弥は自分の家庭の事情を話したことはなかったが、橘先生は勘がいい人なのでなんとなく気付いたものがあって、お正月を一人で過ごすであろう裕弥に心遣いをしてくれているのだと思った。
裕弥は笑って、
「おせち料理は彼女の手作りですか」
と訊いた。
『そう』
橘先生の気持ちはとても嬉しかったが、
「考えておきます」
と裕弥は言った。
『気が向いたら、ぜひ。遠慮しなくていいから』
「はい」
電話をきって部屋の前までくると、中から部屋の電話が鳴っているのが聞こえた。
また電話か。携帯じゃなくて部屋に電話してくるなんて一体誰だろう、と思いながら、裕弥は慌てて鍵を開けて部屋の中に入った。靴を突っかけたまま、今にも呼び出し音がきれてしまいそうな電話の受話器をとる。
「もしもし」
『裕弥……さん?』
「はい、そうですけど」
聞き覚えのない女性の声だったので、誰だろうと思った。それにこういう呼び方をする人に覚えがなかった。
『わたし、です』
わたし……? わたしって?
裕弥は戸惑いながら、
「あの、すみません、どなたですか?」
と聞いた。すると電話の向こうの女性は急にキッパリとした口調になって自分の名を告げた。
義母だった。つまり、父親の再婚相手だった。
「ああ……」
裕弥は突っかけたままだった靴を片方ずつポーンポーンと玄関に投げた。
「どうも、お久しぶりです」
実家に長い間帰ってなかった裕弥は、義母と話すのは久しぶりだった。というより、元々ほとんど会話を交わしたことはなかった。声を聞いても義母だとわからなかったのは当然ともいえる。
義母は久しぶりに話す裕弥の最近の様子についてなどは何も聞かなかった。電話をしてきた理由は自分と裕弥の父親とのことだった。
『あの人ったら、会社を辞めちゃったの。自分から辞めたって言っているけど、もしかしてリストラされたのかもしれない。それで最近は毎日家にいるの。まだ五十代前半でしょ。働いてくれなくちゃ困るの。あ、すぐに生活費がどうこうっていう話ではなくって、やっぱりね、ずっと二人で家にいると疲れるのよ。亭主元気で留守がいい、って言うじゃない?
あの人があんまりにもこれからのことを何も考えていない様子だから、わたし、これからどうするつもりなのか、働くつもりはないのかってしつこく聞いたの。そしたらあの人、うるさがって。“文句があるなら出て行け”って、ひどいと思わない?』
途切れることなく甲高い声で話し続ける義母の言葉は、裕弥が知らない遠い世界から聞こえてくるようだった。
『ね、裕弥さん、どう思う? あの人はもう働く気がないのかしら?』
裕弥はようやく口を挟んだ。
「前の仕事辞めたばかりだから、少し休もうと思っているだけじゃないですか?」
『そんな、ヒトゴトみたいにノンキなこと言って』
ノンキなことを言ったつもりはなかったが、義母は裕弥の言葉にカチンときたようだった。
『こんなこと相談できるの、裕弥さんしかいないと思って電話したのに。ねえ、裕弥さんからあの人に働くように言ってよ』
「俺が……ですか」
『そうよ。わたしたち、家族じゃない』
“家族”という言葉がこんなに空々しい響きを持っているということを、裕弥は初めて知った。
『とにかく裕弥さん、うちに来てね。あの人と話して。あの人、わたしとは口もきかなくなっちゃって』
言いたいことだけ言って、義母は電話をきった。
裕弥は深いため息をつきながら受話器を置いた。義母は「うちに来てね」と言った。「帰ってきてね」ではなく。その表現だけで裕弥はもう既にその家の人間じゃないということだと思えた。
でも、まあ、親父にも全然会ってないし。いい機会かもしれない。
裕弥は重たいのか楽しみなのか自分でもわからない感情に満たされながら、義母の誘いにのって久しぶりに実家に行ってみることにした。
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