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「green season ~春~」(2)
よく晴れた春の朝だった。
いつも通り花粉症の薬を飲み、ラッシュ時の通勤電車に乗り、職場に向かっていた。
前日の恵美子とのやり取りを思い出すと胃がムカムカしてきた。
ランチの時、珍しくお弁当を持ってこなかった恵美子と彩菜は一緒に外食することになったのだ。お昼休みは唯一のんびりできる時間だったのに……。
仕方ないなあと思いながら、二人で彩菜がよく行く店に入り、ランチセットを注文した。
「へー、ここのランチ、安いのにおいしいね。藤崎さんって、いつもこんなにおいしいもの食べてるんだ」
恵美子はオムライスを頬張りながら言った。
「わたし、ここのオムライス大好きなんです。タマゴがふわふわで、デミグラスソースにコクがあって」
ちょっと嫌味っぽい恵美子の言い方に引っかかったが、平静を装い彩菜はこたえた。恵美子はそんな彩菜をおもしろくなさそうにちらりと見て、言った。
「わたしなんてさ、いつも事務所内でお弁当食べてるじゃない? そうすると、お昼休みだっていうのに来客があったり、電話が鳴ったりして全然落ち着かないの。お昼休みくらいちゃんととらせてよ!って思っちゃう」
残業は人まかせなんだから、せめてそれくらいやってよ、と彩菜は内心思った。
きちんと社会人をやろうとする彩菜がどこかで、
『村井さん、それは大変ですね。今度からわたしも事務所内でお昼休みをとりましょうか?』
などと言うべきであると訴えていたが、彩菜はその訴えを無視した。なにも言わない彩菜を恵美子は不服そうに見た。
「ねえ、藤崎さんって彼氏いるの?」
「は?」
あまりにも唐突な問いかけだったので、素っ頓狂な声を出してしまった。
「……今はいませんけど」
「今は?」
「……いません」
前の会社が倒産した直後に、彩菜は学生時代から付き合っていた恋人と別れた。相手に他に好きな人が出来たのだ。
職と恋人をほぼ同時に失って、さぞショックが大きかったろうと、このことを打ち明けた友人には同情されたが、実は恋人と別れたことに対するショックは全くといっていいほどなかった。
この彼は大学の時の一つ上の先輩で、いわゆる合コンなるものをした時に、向こうから彩菜にアプローチをしてきた。
「いい人じゃない。カッコいいし」
と周りから言われて、何となく付き合い始めたものの、彩菜は今考えても、「あれは恋愛だったのだろうか」と思ってしまう。
付き合いは学生時代から四年ほど続いた。お互いが社会人になってからも、当たり前のように週末には会い、一緒の時間を過ごした。
でもどんなに長い期間付き合っていても、彩菜は二人が一緒に過ごす時間に違和感をもっていた。
腕を組んで歩いていても、肩を抱かれてもキスをしても。「違う」という感情はどこからともなく湧き上がってきた。
嫌いじゃない。好きなところもある。でも、違う。何かが不自然だ。こんなに一緒にいるのに、彼の存在はひどく遠いものにしか感じられなかった。
前の会社が倒産して、彩菜が動転している時に、彼は彩菜を喫茶店に呼び出し神妙な顔で言った。
「こんな時に悪いんだけど」
と前置きをして。
他に好きなコができた。
ごめん、別れて欲しい。
聞いてもいないのに、彼はそのコとどこで知り合い、どんな人であるのかまで細かく説明し始めた。
一番支えて欲しい時に、この人はこんなふうに去っていくんだ、とぼんやりと思った。
運ばれてきた大きなマグカップに入ったカフェオレの湯気の向こうで、彼は深刻そうな面持ちで伏し目がちにぽつりぽつりと話していた。
でもこんな悪いタイミングでこういうことを言い出す、ある意味バカ正直で気がきかない、言い方を変えれば、まっすぐで嘘をつけないところが、彩菜がこの人を愛しいと思っていたところだった。まっすぐなところが鋭い刃となり、人を傷つけることもあると気づかないくらい、まっすぐすぎるところが。
「わかった」
彼の言葉が途切れるのを待って、彩菜は言った。
「今までありがとう。さようなら」
そう言って、店を出た。一人で街を歩きながら、彩菜は不思議な開放感に自分が包まれていることに気付いた。別れて落ち込むというよりも、やっと自然な形に戻れたという安堵感の方が大きかった。
「二十五歳、彼氏ナシか……」
目の前の恵美子が呟いた。
その言葉の響きにバカにされているような気持ちになってしまい、
大きなお世話だ。
と、心の中で毒づいた。
「ね、じゃあさ」
不意に恵美子は無邪気な顔で彩菜を見た。
「今度の土曜日の出勤、代わってくれないかなあ?」
ウィンクして、顔の前で両手を合わせてお願いポーズ。
「は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
だって、今度の土曜日の出勤を代わって……って……。
今度の土曜日は、彩菜にとってほぼ一ヶ月ぶりの、心待ちにしていた休みだった。その日は恵美子の出勤日のはずだ。それを、なに? 代わってくれって……。
代わるとはいっても、その分恵美子が彩菜の出勤日に代わりに出勤してくれるわけではない。結局彩菜の休みがなくなるだけだというのは目に見えていた。
「あのね、実はね、今度の土曜日、急に旦那のお母さん……、つまり姑なんだけど、うちに遊びに来たいって言い出して。ほら、やっぱり姑とはうまくやっときたいし、だから、私が仕事でうちにいないってわけにはいかないでしょ?」
この人と姑の仲がどうなろうと、わたしの知ったことじゃない。
彩菜は拳をぎゅうっと握り締めた。
「それにさ、藤崎さん、彼氏もいないんじゃ、どうせ休みとったって、することもないでしょ?」
彼氏がいなかったら休日にすることがないって……、どういう理屈でしょうか……。
彩菜はこみ上げる怒りを抑えていた。
身体がぶるぶる震えてくる。自分が自分でいられなくなりそうなほどの怒りで体中が満たされていた。
彩菜が休みを代わってくれるのが当然と思っているような、恵美子のにやけた顔が、とても下品で汚いもののように見えた。
“いい加減にしてよ!”
と叫びたい衝動を必死に抑えていた。怒りをあまり抑えていると、涙が出てきそうになることを彩菜はこのとき知った。
「あ、もうそろそろ戻ろうか」
涙目を隠すために俯いている彩菜の前で、恵美子は伝票を持って立ち上がった。
「たまにはおごるわ。休日出勤を代わってくれるお礼として」
俯いたままの彩菜を残して、恵美子は会計を終えて店を出て行った。
ふざけるな、と彩菜は思った。
もうダメだ。もう限界。
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