「green season ~春~」(3)

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「green season ~春~」(3)

 それなのに翌朝、彩菜は出勤時間に合わせたいつも通りの時間に起床し、いつも通りに身支度をした。  限界なのに、だけど。  やはり仕事を失いたくなかった。こんなことくらいで……、という気持ちが大きかった。  今日いつも通りに出勤しなかったら、二度と会社に行きたくなくなってしまう。二度と恵美子の顔を見たくなくなってしまう。  会社を辞めたら、また職探しに明け暮れなくてはならないのだ。そんなの嫌だ。 「疲れたなあ……」  思わず言葉が零れ落ちた。  すぐに自分が発してしまった言葉に気づいて首を左右に振る。  彩菜は鏡の中の疲れた自分に笑いかける。無理やり口角を上げて微笑んでみる。  ほら、まだ大丈夫。まだ笑える気力が残っている。  そんなふうに気合を入れて家を出てきたはずなのに……。  もしかしたらそれは、目の前に立っていた女性の香水の匂いがきつかったせいかもしれない。彩菜は息苦しさを感じていた。我慢していたら、次第に頭痛がしてきた。視界がかすんできて、「貧血かも」と思った。  十五分ほど乗っていれば職場の最寄駅に着く……、と思ったが、冷や汗が出てきて、我慢できないほど具合が悪くなってきた。  電車が途中駅に着き、ドアが開き、閉まる瞬間、彩菜は前にいた乗客たちを言葉もなく押しのけて、ホームに転がり出た。  呼吸も荒く、よろけるようにして、ホームのベンチに倒れこんだ。目の前が真っ暗だった。何分か後に、どうにか体勢を立て直し、上体を起こした。まだ頭がクラクラしていたので、ほとんど頭が膝につきそうなくらい俯いたまま座っていた。  早くしなくちゃ会社に遅刻しちゃう……。  という思いが浮かんだが、すぐに、  いいや、どうせ今日も残業になるんだし、少しくらい遅刻したって……。  と思った。遅刻するにしても連絡くらいしておくべきだとも思ったが、携帯電話をバッグから出す気力すらなかった。  うずくまるように座っていたのに、誰からも声をかけられさえしなかった。世間って冷たいな、こんなものなんだな、なんてシニカルな感情に包まれる。  会社に行かなくちゃ。せめて遅れると電話をしなくちゃ。  という思いと、  どうでもいい。  という思いが彩菜の頭の中でぐるぐるとまわっていた。  とにかく……、とりあえずこの気分の悪さが少しおさまるまで……。  彩菜はそう自分に言い聞かせ、ゆっくりと呼吸をしながら、ベンチに座ったまま上体を倒していた。  何分か過ぎた頃だろうか。 「大丈夫ですか?」  という声が聞こえたような気がした。  わたしに誰かが声をかけているのだろうか?  かすんだ意識の隅で思ったけれど、彩菜は顔を上げなかった。上げられなかったのだ。上げた拍子に倒れてしまいそうだったから。  ただひたすら気分がよくなるようにと願っていた。気分を余計悪くする多々のことを考えてはいけないと。  春の生暖かい風が頬に触った。  どうにか普通に息をつけるようになり、彩菜は前かがみに固まっていた上体の緊張をふうっと、といた。その時だった。 「大丈夫ですか?」  彩菜の耳に、その響きがとても心地よく入ってきた。  え?と思いながら、声の主を見た。彼は彩菜の隣に腰掛けていた。一人分の席をあけたところに。  彩菜と同じ年くらいだろうか。カジュアルなジャケット姿。サラリーマンという感じではない。  誰だろう、この人は。どうしてここにいるのかしら。 「気分、よくなりました?」  心配そうに彩菜を見つめる黒目がちの瞳がとても優しく感じられた。なんて穏やかな感じの人なのだろうと思った。  もしかしてこの人は、ずっとわたしの横に座っていたのかしら……。  そう思った途端、彩菜の心の中はあたたかいものでいっぱいになった。最近、こんなふうな気持ちになれることはなかった。  とても安心して、涙があふれそうになった。張り詰めていた糸がぷつんと切れたように。 「大丈夫ですか?」  なにもこたえない彩菜に、その人はもう一度聞いた。 「駅員さん、呼んできましょうか?」  彩菜は涙を隠すために顔を伏せながら、首を振った。  しばらく沈黙があってから、 「何か飲みます?」  彼は言った。 「そこに販売機があるから、何か買ってきましょうか」 「いえ、大丈夫、大丈夫です」  彩菜が俯いたままこたえると、 「そうですか」  と彼は爽やかに言い、 「もう少し休んでいた方がいいかもしれませんね」  と続けた。  頷いて、彩菜は彼の言葉に従い、ゆっくりと顔を上げた。  二人が腰掛けたベンチから線路沿いの木々が見えた。  いつのまにか桜の季節は終わっていた。木々は花のそれを緑の葉の衣装に変えていた。  そういえばお花見も行かなかったなあ……。  彩菜はぼんやりと思った。  去年まではこの季節には恋人と一緒に桜の名所を訪ねていたことを思い出した。 「お花見、行きました?」  彩菜の心の中を読んだように、横に座る彼が問いかけてきた。 「いいえ、あなたは?」 「いわゆる桜の木の下でお酒を飲むようなお花見には行かなかったけど、毎日歩きながら咲き誇る桜を眺めてた」  わざわざ桜を見にいかなくても、そういうお花見もあるのか、と彩菜は思った。そんなふうに桜の花を眺める彼の心の持ち方が素敵だなと思った。 「桜の季節は短いから。でも俺、こういう緑を眺めているのも好きですよ」 「そう……ですね」  相槌を打ちながら彩菜は新緑に目を細めた。  春なんだ、とあらためて思った。  前の会社が倒産した頃は冬だった。彩菜の中で季節は冬のまま止まっていた。だけど気づかないうちに季節は流れていたんだ。  そんな季節の移ろいを感じる余裕さえ失っていた。  でもそういえば花粉症もとっくに始まってたし。意識よりも身体の方がちゃんと季節を感じていたのね。  彩菜は考えながら、隣の彼を見る。春の風に前髪が揺れていた。 「あの……、お仕事とか、いいんですか?」  と訊きながら、仕事中という服装でもないのに、失言だったかもと思った。 「え?」  彼は新緑から目を離さない。 「あの、ここでこんなふうにしていて……。時間は大丈夫なんですか?」  彼は彩菜を見て、にこっと笑った。  ドキッとするほど優しい笑顔だった。 「少しくらいなら大丈夫。そちらこそ大丈夫?」 「……少しくらいなら」  彼はもう一度にこっと笑って、また新緑の方に視線を戻した。  彩菜も彼から視線をはずした。ドキドキしていた。どうしたんだろう、わたし……。 「あの……」  いたたまれなくなって、彩菜はまた彼に声をかけた。 「あの、すみません、わたしのために、というか、わたしのせいで、ここで時間を使うことになっちゃったんですよね」  なんだか日本語がヘンだったが、動揺していて上手く台詞がまとまらなかった。 「うーん、まあ……。というか」  と一旦言葉を切って、彩菜を見る。 「なんだかほっとけなかったんです。気分悪そうにしていたから。気になっちゃって。別に、そんなに急いでなかったし」  言いながら、思いついたようにポケットから名刺入れを出して、一枚を彩菜に差し出した。 「岸本裕弥(きしもとゆうや)といいます」  社名らしきものが入っていたが、紙質も字体も独特で、彩菜がなんの会社だろうと思って名刺を眺めていると、 「デザイン事務所です」  と裕弥は言った。 「俺、アルバイトなんだけどね」 「デザイナーさんなんですか?」 「ううん、俺は営業っていうか……、使いっぱしりっていうか」  思いついたように裕弥は持っていたA4サイズほどの四角いカバンを指でトントンと叩いた。 「これ、原稿。イラストレーターの先生から今もらってきたとこ」  そしてスッと視線を走らせる。  あ、時間。今、ホームにある時計を見たんだ。  と気づいた彩菜は、 「もう行かれたほうがいいんじゃないですか?」  と言った。 「うん、そろそろ」  と裕弥は立ち上がりながら、 「もう大丈夫ですか?」  と心配そうに彩菜を見下ろした。 「ええ、なんとか」 「そう、よかった」  裕弥は言ってから、 「じゃ、俺はここの駅なんで」  とぺこりと頭を下げて片手を顔の横で小さく振った。 「ど、どうもありがとうございました」  彩菜が後姿に声をかけると、裕弥は振り向かずに右手だけ振ってこたえた。  裕弥の後姿が階段の上に消えていくのを見送ってから、彩菜は膝の上に両手で持っていた名刺を顔の前に近づけてまじまじと見つめた。会社名と住所、電話番号、名前が印刷された名刺を何気なく裏返してみた。そして目に飛び込んできた文字に釘付けになる。  そこにはアルファベットでYUYA KISHIMOTOとあり、その下に携帯電話番号と携帯メールアドレスが記されていた。  彩菜はこみあげてくるときめきを感じながら、名刺を胸に抱きしめてにっこりと笑った。
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