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とうとう我慢できず、フォルカはカウンターにワインのグラスを強めに置いた。ひとり男の前に立つ。
「いい加減にしないか」
毅然とした態度と声で言う。男が「ぁア?」としゃっくりをしながら振り返った。
「店には店のルールがある。君がオメガではないのなら、ただちにこの店から出て行ってもらいたい」
そう簡単に出て行ってくれるとは思っていない。だが、オメガである自分たちにとって、この店は気を張らずに飲食を楽しめる店だ。
ただでさえ肩身の狭い自分たちの場所を奪うような行為は、見逃すことができなかった。
「君だって、自分の家や庭を土足で踏み荒らされたらいい気はしないだろう。君はこの店に相応しくない。頼むから帰ってくれ」
聞いていないのか、男はニタニタ笑う。舌で歯を舐めながら、物色するような目でフォルカを辿った。やがてフォルカの足先にまで落とした目を首上に戻し、下品な声で言った。
「おまえが一緒に店から出るって言うなら帰ってやるぜ」
咄嗟に「はっ!?」と声が上擦る。
「男なんざ興味ねぇが、その女顔なら話は別だ。だいたいオメガってのは男でも濡れるモンなんだろォ?」
「なっ……!」
「一回試してみたかったんだ。オメガの体を」
ニマニマと下心丸出しで舌なめずりする男に鳥肌が立つ。嫌悪感でゾッと背筋が冷めた。
「だ、誰が君の好奇心に付き合うものかっ!」
そのときフォルカは気づいた。男の斜め後ろの席に座っていた女性が、肩を抱きながら小刻みに震えていたのだ。頬を赤く上気させ、苦しそうに表情を歪ませていた。
額には汗が浮き、間違っても声を出さないよう口を手できつく抑えていた。同じオメガだから、女性に何が起きているのか分かる。ヒートだ。
ホルモンバランスが崩れることで、予期せぬタイミングでヒートになってしまうことはまれにある。恐怖のせいで、女性がヒートになってしまったのも不思議ではなかった。
まずい。このままでは、女性に気づいた男の注意がヒート中の女性に向いてしまう。女性のフェロモンに反応していないのは酒のせいか、男がベータだからなのか……いや、今はそんなことどうでもよかった。
幸い、男は女性のヒートに気づいていない。自分が注意を引きつけ、男と一緒に店の外に出ればいい。大丈夫。男はただの酔っ払いだ。店から出たあと、脛でも蹴って逃げればオメガの自分でも対処できるはず……。
フォルカは拳をぎゅっと握り締め、覚悟を決める。
「……わかった。君と一緒に店を出るよ」
男はヒューッと機嫌よく口笛を吹き、「そうこなきゃな」とフォルカのブラウンの髪先に触れてきた。顎を引いて逃げようとすれば、肩に手を回してきた。酒臭さが顔の近くにきて気持ち悪い。
さっさと店の外に出て、少しでも早く男から離れたい。フォルカは相手の手を肩に乗せたまま、出入口へと向かって歩き始めた。
後ろから声が飛んできたのは、スイングドアを外側に押そうと手を添えたとき。
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