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それは、まだ、今の会社に入社する以前、二年ほど前のことだった。
高校を卒業して、進学も就職もせずに、なんとなく過ごしていた僕は、このままではよくないなと思い、たまたまネットで見た『地域おこし協力隊』に興味を抱き応募した。書類選考も面接も難なく通過し、無事に採用されて、とある山里で暮らすことになった。
そこは、山間部の小さな村で、澄んだ水の浅い緩やかな川が流れていた。川沿いの土手にはたくさんの桜の木が植えられていて、春になると見事な桜並木になるという話だった。
僕が着任したのは九月だったので、当然桜は咲いていない。だから豊かな自然の中ののんびりとした風景の桜並木は、さぞ綺麗なんだろうなと、来年の春を待ち遠しく思った。
右も左もわからない状況の中で、僕の世話役になってくれたのは、村役場の職員で、定住促進課の桐野さんという、三十半ばの女性だった。小柄でぽっちゃりとしているが、どことなく他の人たちよりも垢抜けた雰囲気の気さくな人だ。聞けば、彼女は一度この村を出て、都市部で働いていたのだが、数年前にUターンして村役場に勤めることになったとのことだった。
「大里君、よろしくね。ほんとに何にもない村だから、たぶん、戸惑うことが多いと思うけど、がんばってね。困ったことがあったら、いつでも言ってね」
痩せてノッポな僕を見上げながら、彼女はおもむろに一枚の和紙を手渡してくれた。
「これね、この村で紙漉きをやってるところがあって、これ、私が漉いたの。今年咲いた桜の花びらを一緒に漉き込んでるの」
「へえ、綺麗ですねえ。あ、これ、折ってもいいですか。このサイズ、丁度、文庫本のカバーになりそうです」
そう言って、カバンの中から文庫本をとりだし、紙にあてると、彼女は一瞬、目を見開き、満面の笑顔で頷いた。
「うれしい、使ってくれるのね。文庫本はいつも持ち歩いているの?」
「はい、本が好きなんで。文庫本なら持ち歩くのにも都合がいいんで」
「そう、よかった」
彼女はなんだか、ものすごくほっとした顔をした、ような気がした。そのほっとした顔の意味を知ったのは、しばらくしてからのことだった。
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