贄(にえ)の桜

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 そう思った途端、辺りにいた人々が一斉に振り向き、僕をじっと見据えた。そして、ゆらゆらと僕に向かって歩いてくる。彼らは口々にこう言った。 「贄が来た、贄が来た」と。  僕は踵を返し、その場から逃げ出した。けれども、逃がすまいと人々が襲いかかってくる。あちらこちらから、青白い手が伸びた。 「贄を逃がすな、贄を逃がすな」  彼らの手が僕の腕を掴んだ。僕は無我夢中でそれを振りほどき、何とか逃れようともがいた。けれども振りほどいても、次々と、人々の手が僕を掴む。半狂乱になった僕は、がむしゃらに腕を振り回した。僕の背中のリュックにも手が伸びて、逃げる僕を引き戻した。抵抗した勢いでリュックの口が開いて、中からバサリと荷物が落ちた。その荷物に人々が目を向けたとき、動きが一瞬にして止まった。  落ちた荷物の中に、文庫本があった。桐野さんがくれた桜の花びらを漉き込んだ和紙のカバーがかけられている。彼らはそれをじっと見つめて、僕に言った。 「お前は、この村の者か」  僕は反射的にコクリと頷いた。  それを見届けると、人々はすう~っと消えていった。そして僕の意識が遠のいた。  気付いたとき、僕は桜並木の川縁の土手にいた。辺りは明るく、西日が眩しかった。  咄嗟にスマホを確認した。日時は日曜日の夕方四時すぎ。時間が戻っている。 「夢、だったのか?でもいつのまに、こんなとこで寝てたんだろう」  早春の寒気にぶるると身震いし、僕はその場から立ち上がり、ズボンを払おうとして気付いた。  僕の手の中に、一枚の桜の花びらが握られていた。
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