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 若年の頃の悪しき夜、私はつめたい石を口に含んだ。  舌に触る冷たい食感、カチカチと歯に当たる摩擦音。時折罅割れた傷口に舌先が障るのも恍惚へと(いざな)った。少し息を吸い込むとヒュッと石は喉元へと吸い込まれ、慌てて大袈裟に咳き込んで吐き出す。 その感覚は背徳と表せば利口たる表現とも言えようが、気道を塞ぎ、(つか)える瞬間を紛うことなき美学だと感じてしまった瞬間に、私という人間は消えたのだと若年ながらに悟り、無敵という概念を自覚した。    引き出しをそうっと空けると小さなガラス箱が奥に引っかかる。この箱の中にそれらは存在する。歪な欠片。手を思い切り伸ばそうとも指の先が箱の角あたりに微かに触れるだけなので、肩の方からもっと捩って腕を伸ばし、上半身をチェストに預けて、「もうちょっと」と呟いた拍子に更に三センチほどあてがったところでガラス箱はガチャンと騒がしい音を立てた。異音と共に引き出しから開放された箱は勢いよくこちらへと滑りでてきて、私は両手でそれを掬い上げた。 救い出した筈なのになぜか後ろめたさに苛まれ、誰にも気が付かれないように窓際へと持ち出した。ハンガーに掛けた制服のネクタイが嫋やかな風で揺れる。カチカチと五月蝿く刻み続けるアナログ時計の針音が、今ばかりは唯一の共犯者である。  行儀よく並べられた石たちを指先で撫ぜながら、月光を反射して煌めくひとつを摘み上げて夜風に晒す。淡くまだつめたい空調の暖気に抗う術を探すことに懸命なようで、私の前髪を緩やかに揺らして抜けた。ベランダから身を乗り出すと、河津桜の木が見える。 青みを含んだ(はした)なき桃色の花びらは、夜になると街頭に照らされて色白きヴァルパンソンの浴女のような裸体を思わせる。自然が生み出した色に魅力など感じられない。何かが手を加えるから美しいのだ。生まれながらの姿が美しいだなんて幻想で、単なるエゴでしか有り得ない。 闇の透けるダンビュライトは私の残像だ。行く末を棄て去った残像。片方の目を細めて更に街へと石を翳すと、向こう側にビルが連なった星の(たむろ)が見える。星は(したた)かだ。夜闇で塵の職務を全うする星も、照明の集塵で仕上げられた星も。煌めきに擬態したそれらは丸められてゴミ箱に放り投げられるティッシュや何かと同じであるはずなのに、夫々が自らの存在を恒星かつ稀有であると言い張る。 そういった人口の星々を石を通して眺めると昨日が見えた。昨日というのは日常のホロスコープにおいて最も確かな敵対者である。そういった表現を馬鹿らしいとでも言いたげに、共犯たる時計の針音が邪魔をする。 私は慈愛を込めて摘み上げていた透明の石を傷つけまいと箱に並べ直して、その隣に並べられていた泥のごとく濁る褐色の石を雑に握り、時計目掛けて投げつけた。つるんと滑らかな質感に断層めいた表面。見た目こそ憎たらしいその物体は時計に衝突した際真っ二つに割れ、床へと落ちた。落ちた衝動で更なる微塵物体となった塵は元の状態よりも美しく思えた。  
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