蠱惑Ⅱ『矯風』

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「一先ず生活の安定を考えて、事務以外の仕事に就いてみませんか?」  職安の担当は他人事です。潰れる事のない職場からの余裕でしょうか、いつまでも遊ばせておいて失業保険泥棒をさせまいぞと私に襲い掛かるのでした。 「ハウスクリーニングはどうです、体力的にも無理なく働けると思いますが」  ハウスクリーニングなんて横文字で誤魔化すがビルの清掃員です。馬鹿にするわけではありません。ですが私が証券会社時代に廊下やエレベーターやトイレで擦れ違い「おはようございます」と挨拶をしてくれるおばさんやおじさんの仲間入りをすることになるのです。今になって思うのは、やはり上から目線で見ていたのは間違いなかったのです。  アパート暮らしになって半年、家内が出て行きました。一人息子は既に独立して寮生活を始めていたのが幸いでした。息子のために残そうと懸命に努力した新居には既に入居者が決まっていました。売値は私が買った値段でした。不動産屋は二倍の利益を得たのでした。誰かが損をするときには誰かが得をする、それが経済です。  一人暮らしになり半年、私は他人事を押し付ける職安の担当が推薦する職場を面接しました。そして採用され働きました。正社員を断りパートを選択しました。「ご職業は?」と問われた時に「ビルの掃除です」と答えるのが恥ずかしかったからです。勤務先は当時のライバル証券会社でした。5時30分から12時まで毎日7時間働きました。時給700円ですから一日4900円。二十日働いても10万にはなりません。家賃がなければ半金を借金に回せるのですがそうもいきません。いくら食費を節約するといっても限度があります。要するにビルの掃除では私の生活は成り立たないのです。証券会社の給料でなければ生きていけない生活体系になっていたのです。 「一緒にいいですか?」  10時の休憩時にコーヒーを差し入れしてくれた同僚が私の隣に座りました。 「ああ、これはどうも、いただきます」  私は遠慮なくコーヒーをいただきました。休憩時にお茶も節約している私に気付いたのでしょうか。
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