蠱惑Ⅱ『矯風』

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 封筒にはこの運賃分でしょうか、一万円札の他にちょうど2500円が入っていました。仕方なくそれを渡して駅まで乗せてもらいました。これで私の人生は破綻です。もうローンを支払える力はなくなりました。来月には督促状が届くでしょう。それでも私に出来ることは何もありません。アパートを出て戸籍を移動せずに生きていく他はないのです。生活保護も頭を過りましたが、妻や倅に迷惑を掛けたくありませんでした。そして選んだ道は浮浪者です。浮浪者になれば束縛などから解放される。誰からも監視されなくて済む、そう考えていましたが、とんでもありませんでした。 「お前、どこに床取っているんだ」  私が初めて駅ビルの庇の下に段ボールを敷いた時でした。明らかに浮浪者生活の長い男が私に言い寄りました。 「何か私がご迷惑を掛けたでしょうか?」  公共の地で迷惑を掛けるとすればそれは駅の管理者と利用者でしょう。 「そこは俺の寝床だ」  こんなとこにも規則があったんです。私は段ボールを引き摺って2メートルずらしました。 「そこは玄ちゃん、その隣は二郎さん、その奥は卓三だ、この庇の下は満員御礼だよ。それにこの時間からそこに床取れば駅員が素っ飛んで来る。みんな終電を終えてから集まるんだよ、このど素人が」  人間の社会で、序列からすれば恐らく最底辺のこの世界でも上下関係が成立し、強い者、先の者に仕切られ、新参者は我慢して生きていかねばならないのです。もうここから這い上がることは不可能でしょう。直立の岸壁を攀じ登るより難しい。上が駄目なら下はあるのでしょうか、下などあるはずもない。あるとすればそれは地獄でしょう。私は炊き出しやコンビニの売れ残りなどをいただきながら3か月をこの最底辺で生きています。食い物に困り痩せるだろうと思っていましたが逆に太りました。残飯までが食物だとすれば、この国で餓死することはないでしょう。ある日炊き出しに並んでいるときのことでした。 「横山さんじゃないですか?」  炊き出しの弁当を配っている男が声を掛けました。
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