たえて桜のなかりせば

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「こんなにたくさん咲いているのに、どうして香りがしないんだろう?」  到着した途端、子どもみたいに駆け出した君が無邪気に振り返り、尋ねる。 春風に優しく揺れる満開の桜。二百メートルほど続く並木道は薄紅色のトンネルだ。見上げれば青空埋め尽くすような花影から木漏れ日が差し込んでいる。まさに絶景だ。 「染井吉野はほとんど香りがしない品種だから。君が思っている桜の香りっていうのは、桜の葉に含まれているクマリンという香り成分の一種が、乾燥させて塩漬けした時に細胞が壊れることで生成されるものなんだよ。もっとも、大島桜、千里香、万里香、駿河台香なんかは匂い桜といって、もっと香る品種だけれどね。ただし、染井吉野とは香りのタイプが違うし、花自体ももっと大きくて白いんだ」 すれ違う恋人同士の多さにうんざりしながら答えると、数メートル先で立ち止まった君が新鮮に驚いて微笑んでいる。 「へぇ、そうなんだぁ。よっちゃんは本当に物知りだよねぇ。何でも知ってるもん」 褒められたのに全然嬉しくない。むしろイラッとくる。 違うよ。君が知らなすぎるんだ。 桜のことだけじゃない。君の片思いしているアイツが見かけだけで頭は空っぽだってことや、僕が物心ついた頃からずっと抱き続けている君への気持ちとか。
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