1.境遇

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1.境遇

 H町の安居酒屋に下品で知性の感じられない声が響く。  会話の主は若者たちで、二つのテーブルを占有して話している。内容は、儲け話や異性のこと。  誰彼が所有する車をやたら高く売ったとか、どこかのキャバクラにとてつもない美人がいるだとか、店中に聞こるくらいに盛り上がるものだから、他の席から軽蔑的な視線を送られていた。 「南川達也という男は、ちょうどああいうグループに属していたんだ。毎日のように集まってくだらない内輪話でゲラゲラと笑い合う仲間だ。少々やんちゃな感じもするし、稀に反社会的だったり過激だったりする発言もするが、実際には行動に移す勇気はなく、さして害はない。ようはいつの時代にもいるいきがった若者の一集団に南川はいた」  そう話すのは酒巻という老人。H町の三丁目の交差点の側、大通りから入って暫く進んだところに突如として危うい空気へと変わる地区があり、その奥に探偵事務所があるのだが、酒巻はそこの所長である。  酒巻は数々の難事件を解決してきた、業界のちょっとした有名人だが、今では他の所属探偵たちに仕事をすっかり任せ、街中でこれはと思った人間に声をかけ、探偵事務所が手がけた仕事を披露して採用活動をするのが役目になっている。そんな彼が披露していたのが南川達也に関する話であった。 「南川はグループの他の者たちと少々違っていたんだ。例えばある日、仲間の一人が肩に流行りのタトゥーを入れたのだと居酒屋で披露したことがあったのだが、南川はまったく興味を示さず、その仲間からお前も箔付けにどうだと誘われると、「その柄は給料が増えるか?」 とタトゥーを指差し至極真面目に尋ね返したらしい」  南川達也は金に困っていた。そもそも職につ就くのさえ苦労していたのだと酒巻は続ける。 「彼のそれまでの人生は決して順風満帆ではなかった。まず南川は高校を中退した。勉強が苦手だったようだが、それよりも彼の性質の問題が大きい。当時こういうことがあったらしい。まず、教師が授業中に南川に質問したところ南川は答えられなかった。するとその教師は馬鹿にしたように「こういう基礎的な問題が理解できていない奴は学校に来る意味はない」と言ったらしい。教師としては叱咤激励のためにそう口にしたのかもしれないが、南川は「なら今日で辞める」と言い残し、それ以来登校しなくなってしまった。南川はとにかく世渡りがうまくない。そういう彼の性質は直ることなく、高校を辞めどうにか就職出来たのに職場を次々に変えることになったのは、やはり彼の性格・行動が元になっている。ある職場では、先輩社員から淡々と働く様を指摘され、夢を大きく持てと勇気づけられたのに「叶いもしないのなら妄想でしかなく時間の無駄だ」と返してしまい、それ以来嫌がらせを受けるようになったとのことだ。本人を庇うつもりはないが、そうやって躓くと、段々とまともな人間が周囲から去っていく。境遇は年々悪くなって、そのうち本人が気づかぬうちに、危険な仕事に巻き込まれても行く」 酒巻はそこまで話して周りを慎重に見渡し、声をひそめた。 「南川にしても最初は手元の金が不足しているのを充当しようという思いが強かった。怪しさもいくらか感じながら、しかし知り合いに紹介されたSNSアカウントをフォローしていると、経験不問で簡単なお仕事です、早い者勝ちみたいな具合に募集がかかり、一時間と経たずに応募者が集まって募集が締め切られるのを見ていたら、ちょっと自分もやってみようとなったんだな」
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