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5.引火
南川は久しぶりに恋人の加奈を呼び出し、焼肉屋に行った。安い店ではなく、高級な店で、加奈は店に入った途端、何かの間違いであろうと引き返そうとしたが南川は手を引いて止めた。
「俺がおごるから」
南川と加奈が暫く逢っていなかったのは喧嘩をしていたからで、その原因となったのは金だった。デートに出かけたがる加奈に、金銭的な余裕のなかった南川が渋ることを繰り返した末に揉めたのだ。
「新しいバイト決まったってこと? お金がもう手元にあるってことは日雇いとか?」
焼肉を頬張りながらも信じられない気持ちだったのだろう加奈が問うと、南川は鼻で笑った。
「割のいい仕事なんだ。時給が百円でも高い仕事を探していたのが馬鹿になるくらい」
「まさか怪しい仕事じゃないよね?」
「違うよ。知り合いの紹介だし……それに俺、向いているかもしれないんだ、この新しい仕事」
そう云って微かに笑顔を浮かべた南川は、ハッピーブローカーから打診された二つ目の仕事を迷うことなく受けると答えていた。
『実はね、本件はとある名家についている弁護士からの依頼で、相続に際して隠し子がいるかもしれないということで密かに調査をする必要があったんだけれど、例の川沿いにどうやらその隠し子が住んでいるらしいというのは分かったのだけれど、どの家かは分からなかった。それが、君が見つけてくれた川沿いの一軒だけど、住人の特徴から該当する場所かもしれないとなっている。君が窓から老婆が見えると教えてくれた家のことだよ。ただ本当に探していた場所なのかを確かめるためには、もう少し情報が必要なんだ』
南川はハッピーブローカーから頼まれたことをしっかり記憶し、再びC橋を目指した。
老婆は一人暮らしであるか、もし一人でないなら誰と住んでいるのか、そして住人を含めて、その家にはどんな人間が立ち寄るのか。三日間でよいので、見かけた人間を片っ端からでもいいから写真に収めること、これらがハッピーブローカーから届いた調べるべきことだった。
時刻は二十時。南川は橋の近くに停まっていた黒いバンに近づく。
ハッピーブローカーからら、その日追加でメッセージを受け取っていた。今回の仕事にはもう一人参加していること。そして黒いバンに仕事仲間となる人間が乗っていること。
サイドガラスをノックすると、バンのスライドトアのロックが開いた音がした。南川は周囲を確認した後車に乗り込む。
バンの運転席にはサングラス姿の巨漢がいて、停車しているのに、雪道を走っているくらいにしっかりとハンドルを握っていた。
「俺は南川。ハッピーブローカーからの仕事は今日で二回目で」
南川がそう話すのを巨漢が隣の座席を太い腕で殴って遮った。南川は驚いて言葉を失う。
「友達を作りに来てるんじゃない。黙っておけ」
巨漢は名乗ることもなく、ただハンドルを握っていた。南川は彼に対して、寡黙であるとか付き合いの悪さとかを感じるというよりも、彼の表情にまったく余裕がなく、身体をずっと硬くしている様子に違和感を覚えていた。
「あの青い屋根の家の玄関が見える位置まで進んでもらいたい」
南川は控えめに巨漢に云った。バンの停車位置からでは老婆の住む家が他の家に阻まれ屋根くらいしか見えないのだった。巨漢は嫌な顔をしながらも、アクセルを慎重に踏み、南川がそこでと伝えた場所までバンを移動させた。
近隣住民なのだろうか若い夫婦がスーパーの袋を提げて側を通り、老婆宅の方角へ歩いていく。南川はハッピーブローカーの指示どおりスマホのカメラを向けて二人の行動を追っていたが、関係のないアパートへと吸い込まれていった。
その後も駅からと思われる人間が複数通り過ぎたが老婆の家には誰も入っていかなかった。老婆宅の二階に灯りがついていて、その日は厚手のカーテンがかかっており中の様子は分からなかったが二十二時半を超えたところで暗くなった。
「今日はもういいだろう。あの家には老婆ひとり住んでいるだけだ。そう報告したらおしまいだ」
巨漢が云った。体のわりに小さな声で、いくらか震えてもいた。
「まだ誰か帰宅しないとも限らない」
二時間以上スマホを構えていたのに一枚も撮れず、老婆と共に住む人間がいるのかどうかさえもまったく分かっていないという収穫のなさに南川は不満だった。
「ずっと停まっていると怪しまれる。通報なんかされたら面倒だ」
巨漢はいつからかバンに備わっている各所のミラーをやたら確認するようになっていた。
「ただ写真を撮るだけだし、別に捕まるようなことじゃない」
「怪しまれるのはごめんだ」
「悪いことをしていないのに怪しむほうが悪いんだよ」
南川が答えると巨漢はあからさまに嫌そうな顔をして反論しようとしていたが、駅のほうからまた一人やってくるのが見えた。巨漢は黙り、南川はスマホを構えた。
バンの横を通ったのは、スーツを着た二十代後半の男性で、通り過ぎたあと、老婆宅の玄関へと近づいた。
「家の前まで車を進めてくれないか?」
南川は既に数枚の写真を撮っていたが、より鮮明にその人物を写したくて巨漢にそう頼んだが、巨漢は嫌がった
「通報されるぞ」
「隠し子か、もしかしたら孫かもしれない」
「断る」
巨漢がハンドルから両手を離したので、南川は後部座席からサイドブレーキを外し、巨漢の足を膝を押さえることで強引に下しアクセルを踏ませた。
バンがのろのろと前進し巨漢がブレーキを踏もうとしたが、南川は彼を押さえつけてそうさせなかった。バンが老婆宅の前をゆっくりと通り過ぎるとスーツの男性が玄関扉に手をかけた姿勢で振り返っていた。
「見られた! こっちを見ていた!」
巨漢は大騒ぎしながら体を起こし、アクセルを踏み込んだ。南川はその勢いで後部座席に倒れこんだが気にせず、直前にスマホで撮影していた画像を確認する。暗い場所ではあったが街灯がちょうど差し込んでいたおかげでその人物の顔が鮮明に写っていた。
その直後、バンが赤信号の交差点に突っ込んでいくのを南川は認識した。「ブレーキ!」そう叫ぼうとしたが、横から乗用車が迫ってくるのが見え、次の瞬間には大きな衝撃を受け、バンが横転したのが分かった。
――気を失っていたのは数分か、数十分か。いずれにせよ遠くから救急車のサイレンが聞こえていた。目を開くとバンは横に倒れており、フロントガラスが粉々に壊れ、ガソリンの匂いが車内に充満していた。シートベルトをしていなかった南川は体をシートと天井に挟まれていて、身体のあちこちが痛かった。
どうにか身体を捻り、周囲を確認するが、運転席には既に巨漢の姿はなかった。巨漢は一人逃げていったのだと南川は理解した。
上方にあるスライドドアへ這いずる。すると小さな爆発音がして、エンジン部分から煙が上がっていた。
ガソリンに引火すれば爆発するのだろう。南川はそう考えながらスライドドアから体を出したが、そのタイミングでスマホが手の中にないことに気が付いた。ポケットも確かめるが入ってはない。事故の衝撃で車内のどこかに飛んでしまったのか。
煙の臭いを感じながら車内を見下ろす。スマホは後部座席の地面側になっているドアミラーのところに落ちていた。
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