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6.安定
南川はスマホを見つけると躊躇なくまた車内に身体を沈めた。バンが爆発するかもしれないと思ってはいたが、スマホがなくては報酬がもらえないという考えが上回っていた。
煙がますます増え、社内が真っ白になっていた。そしてガソリンに引火したのだろう炎が上がったとき、バンの奥で南川はようやくスマホに手を届かせていた。
バンが爆発する。到着していた救急隊員や警察官たちは近づけず爆風のすさまじさで目を開いていることもできなかった。バンがガソリンを満タンにしていたからだろうか、その後消防車が炎上を消し止めるまでには結構な時間が掛かった。
南川がそれらの顛末を最後まで確かめることはなかった。死んでしまったからではない。彼は生きていた。
爆発の瞬間、南川はちょうどスライドドアに体を通そうとしていたところだったが、爆発の勢いで屋外に放りだされていたのだった。
運転席のシート越しに爆発の勢いを受けたからだろう、南川は熱による火傷もなく、落ちた地面が道路わきの土手で草が茂っていたのが幸いし怪我もしていなかったため、ふらつきはしながらも早々にその場を去ることができ、電車に乗るとハッピーブローカーに初日の報告をした。
『スーツ姿の若者は、家に入ろうとしていたことから家族だと分かりました。そしてその若さから老婆の孫なのではないかと思いました。そうなるとその両親もあの家に住んでいるのかもしれません。それから一つお知らせですが、支給されていたバンが事故に遭いました』
南川が緊張しながら足を踏み入れたのは、外資系ホテルのロビーだった。恋人の加奈が誕生日なのだとバーの店長石川に祝い方を相談したところ、勧められたのがそのホテルの最上階にあるフレンチでのディナーだった。味も接客も超一流で、なにより眺望が素晴らしく、女性なら誰でもうっとりとするという。
「高いよね、ここ……」
ロビーで待っていた加奈が口にだしたのは不安な言葉だった。確かに仕事を転々とする南川のことをよく知っている彼女なのだから、そんな高級店を訪れられるだけの蓄えがないと考えるのが自然であった。
「大丈夫だから。楽しんで」
南川は表情を変えずに加奈をエレベーターに乗せた。金はあるのだ。南川は心の中で呟いた。
財布の中にはハッピーブローカーから送られてきた札束が入っている。初日にアクシデントはあったものの、その後の二日間も老婆の家を調べ、老婆が午後三時半にスーパーに買い出しへ出かけること、就寝はいつも変わらない時刻であること、近隣住民とはすれ違えば会釈するが会話するまでの関係ではなく、知り合いが老婆宅を訪ねて来ることもなかったことを漏れなく報告したのだった。
『とてもよく分かりました。君のおかげでその家が探していた場所であることがほぼ確定できそうです。正直、これだけの成果をあげてくれるとは嬉しい誤算です。次の仕事もきっと連絡するので是非受けて貰いたい』
ハッピーブローカーからの返事を南川は何度も読み返した。不定期な仕事だとはいえ一度に得られる金額が極めて大きく、そこらのバイトをやるよりもずっと儲かるのは確実だったし、日々の生活で頭が一杯だった彼が、少々ではあっても加奈との将来や自らの先行きを考えるようになったのは大きな変化だった。
味わったことのない豪華な食事を楽しんだ後、南川は加奈を連れて夜の街をのんびり散歩する。最初は怪訝であった加奈も注がれたワインを口にするうちに笑顔が増え、店を出る頃には足取りが軽くなっていた。
南川は職を転々としていたときであれば加奈と会っているときであっても常にうまくいかない日中の仕事を無意識に思い出し不快な顔を見せてもいたのだったが、その日は心が曇る瞬間が一度もなかった。
デートの最後に南川は加奈を石川のバーに連れて行った。石川は大いに歓迎してくれ、二人に酒をおごってくれた。
「先週発売されたやつじゃないか」
石川が指さしたのは、南川が何気なくテーブルに置いたスマホだった。南川は笑顔で頷く。
「買ったんです。最新機種」
「俺は今週末買いに行くつもりだったんだ」
「使いやすいですよ」
南川は大事そうにスマホを扱う。身に着けているもの全てが洒落ている石川が驚いてくれたのが嬉しかった。
「石川さんのおかげです」
ポツリと云った南川はSNSにメッセージが到着したのに気が付いた。仕事が来た。そう思って確認すると、ハッピーブローカーからだった。
『例の家の中がどうなっているか調べられないでしょうか。部屋割りや、家具の位置、どんな小物があるかも。それらが分かれば、その家が探していた場所だと確定できそうです。今回は家に入らないと分からない事ばかりですから……報酬は弾みます。百万円。三日以内に調べた結果を教えてくれれば一括で払います』
加奈の視線を感じて南川はスマホを隠す。心臓が高鳴っていた。それは百万円という手にしたことのない金額を見たからでもあったし、仕事の内容がそれまでと違って身の危険を明確に感じずにはいられないものでもあったからだった。
「お仕事の連絡?」
加奈が不安そうに云った。南川はゆっくりと頷く。
「大丈夫なの?」
「……」
他人の家の中を調べる。それも家の中に入って見てくることを求められている。外から様子を見てくるだけならなんてことはないと思えていたが、流石の南川も加奈に問われると返答に詰まってしまう。
「美味しい料理もお洒落なバーは嬉しいし、なにより君が穏やかにいてくれるのが私は一番だけれど、危ないことには近づかないで欲しい」
加奈は南川に手をそっと触れながら説き、考える時間を与えるためであろう洗面に向かった。南川は彼女の背中を目で追った後、自らの装いに視線を落とす。その日のデートに合わせて新調した上着やパンツ。バイトを点々としていた時は、着ることができればよいとずっと同じ物を身に着けていたが、久しぶりに服屋を巡ったのだった。そしてそれは懐に余裕ができたからである。現金を手にしたことで服でも買おうかと思ったのだ。
「次の店では簡単な料理を出してみようと思っています。冷凍食品を温めたものではなく、手作りしたものをです。スペースや料理人のコストは増えますが、最近のお客さんは酒だけではなく料理も一緒に楽しみたいと仰いますから、小皿に極上の味の料理を盛ってお出ししたいと」
別の客と会話をしている石川の声が南川に届く。石川の相手は貫禄のある客で、年齢は六十を超えているだろうか。艶のあるスーツ姿で白い髭を蓄え背筋が伸びていた。
二人の会話には一千万円とか、二千万円とか、南川が見たこともなければ、話に出したこともないような金額が話題に上り、どうやらビジネスの話らしかったが、南川は耳をそばだて一生懸命集中しており、そのうち自身がその二人の会話に混ざりたいと思っていることに気が付いた。
「美しいお嬢さんをお連れで羨ましい」
南川の視線を感じ取ったのだろう、貫禄のある客が笑顔で振り向き、南川がどぎまぎしているとそう話しかけてきた。
「彼らは結婚すると思いますよ。彼にもようやく運が回ってきたんで、もう心配はないんです」
無言でいた南川の代わりに石川がその客に説明していた。石川の紹介でつながったハッピーブローカー。そして多額の報酬を貰えるようになっている現状。トイレの扉が開き加奈が出てくる。南川は目の前の酒を飲み干し、危険な仕事なんかでは決してないのだと心の中で言う。目を掛け良くしてくれる石川が紹介してくれたハッピーブローカーなのだから信頼できる筈なのだ。家の中を調べるという指示にしても何か理由があってのことで、犯罪になるようなことではない筈なのだ。
南川は意を決して加奈を笑顔で迎え、彼女の分も合わせて二杯新たに酒を注文した。
「危ない仕事じゃないんだ。信頼できる人からの紹介なんだ」
「盗み見をするつもりじゃなかったけど、見えていたよ。私にはちゃんとした仕事だとは……とても思えない」
加奈は真顔で話していて、もし仕事を受けるのならもう会いたくないとまで言った。
「でも俺には他にできることがない」
南川は暫く考えた後、ポツリと云った。加奈は彼が本気であると分かったのだろう、静かに席を立ち店を出て行った。その後石川が心配して話しかけてきたが、南川に迷いはなかった。仕事を無事成功させて大金を手にすれば加奈だって文句はない筈だ、そう思っていた。
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