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8.将来のこと
南川が宝石店を訪れたのはそのときが初めてだった。緊張する彼に従業員が声をかけると、「婚約指輪が欲しい」そう答えた。暫く音信不通となっていた加奈に会いに行くことを決めた南川は、プロポーズを心に決めていた。
加奈は電話もメールもSNSにも反応しなかったので、南川は彼女の部屋へ直接向かうことにした。土曜日の夕方、暖かくて雲の少ない日。その日は加奈の誕生日である。
インターホンを押し、暫く待つ。外出の好きな彼女であるから、どこかに出かけているかもしれないと思いながら南川は立っていた。
数分待っても反応がなく、南川が残念な気持ちで立ち去ろうとしたところで、扉が開いた。「何か用?」と加奈は冷たく云った。
「誕生日だろう。お祝いに来たんだ」
南川はいくらか笑顔を浮かべて云った。加奈は怒ったような顔をしていたが、すぐに呆れた表情に変わって中に入れた。
「私は年頃の女なんだから、他に好きな人ができていたかもしれないんだよ」
加奈はソファーに座った南川にそう文句をぶつける。
「それは困る」
「困るって……考えもしなかった?」
「あぁ」
南川はポケットに手を入れ婚約指輪をいつ出せばいいかとモジモジしていた。
「仕事……大丈夫だったの? 危ない仕事じゃなかった? 罪になるような仕事じゃなかった?」
「……家には入ったけど、問題ない」
「他人の?」
「そう。だけど見つかってはいない。多分、後ろ姿も見られてはいない」
「信じられない……」
「何も盗んでいないし、暴力をふるってもいない。ただ家の中の映像を撮っただけで」
呆れた表情だった加奈の表情が厳しいものに変わっていた。
「あり得ない。盗撮でしょ? 気持ち悪いよ。私の家が誰かに侵入されて撮影されてたなんて考えたらもう住んでいられない」
「違う。そういう厭らしい目的じゃなくて、住んでいるのはおばあさんなんだ。おばあさんが一人で広い家に住んでいて……そのおばあさんはとある大金持ちの愛人で……それより誕生日だろ? プレゼントを買ってきたんだ」
南川は細部を語るのはハッピーブローカーから守秘義務という言葉で他言を止められていたのでやめ、加奈の機嫌を収めようと結婚指輪をテーブルに出した。加奈はそれを見ると混乱した声をあげた。
「サイズが分からなくて、店員さんと相談して、きっと大丈夫だけどもしあわないようだったら交換もできるって」
「SNSで頼まれて、おばあさんが住んでいる家に忍び込んで映像を撮ったのね?」
「いいよ、もうその話は」
「家の隅々まで、何がどこにあるか、伝えたってことだよね?」
「大金持ちの人の記憶とあっているか確かめるためだよ、そこが本当に探している人の家であるか」
「ちがうよ……私、ニュースで読んだよ。それは強盗のためだよ。SNSでバイトだって募って、押し入る家の下調べさせられるだって、言ってた。その時点で怪しまれたり警察沙汰になったら、トカゲの尻尾切りみたいにバイトした子たちを見捨てて、もしうまく調べられたら、バイトを依頼した黒幕が強盗するんだよ」
「まさか。そんなことをする人じゃない」
「誰が?」
「ハッピーブローカっていって、SNSで仕事を回してくれる人で」
「冗談でしょ? どうしてそんな人信じたの? まさか住所とか名前とか個人情報渡していないよね?」
「全部伝えた……。年金とか保険とかそういうのにいるって言われたから」
「警察。警察に連絡しなきゃ」
通報しようとする加奈の行動に南川は驚いて制止する。ハッピーブローカーは尊敬する石川の知り合いで犯罪者ではありえない。
「ちゃんとした人なんだ。怪しくなんてない。お金もきっちり送ってくれた」
「受け取っちゃ駄目なお金だよ!」
加奈の剣幕に押されながら、南川はスマホでSNSを開いた。ハッピーブローカに連絡を取って、そういう人間でないことを証明しようとしていた。
しかし前日までは確かにあったハッピーブローカーのアカウントは消えていた。南川はようやく騙されていたのかもしれないと考え始めた。
「まさか」
「早く警察に云わなきゃ駄目」
南川は警察と云われると体が固まってしまいそうになる。警察に良い印象はない。街中で遭遇すれば、真っ当に生きている南川であるのにどこか怪しむような態度で接してくる連中。
「見てくる。そのおばあさんの家を。きっと何もないんだ。強盗なんてされていない。それから、もし加奈の云うことが本当なんだとしたら気を付けるように伝えなきゃいけない」
南川はそれだけ云って加奈の反論をすべては聞かずに部屋を出た。駅まで走り、C橋の側の老婆宅へ向かう。
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