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三月最後に…
「車、買い換えたんですね」
雪にかわって雨がそぼ降る三月も終わりの夜、置き傘がない彼に「送りますよ。私、車ですし」と、翔子はつい声をかけてしまった。ちょうど人事異動が発表された日。
翔子はこれまで、新車を買ったことがない。友人が中古車販売業をやっており、そのつてで割りと短いサイクルで中古車を乗り継いでいる。
「そうなの。……って、買い換えたこと、よく知ってますね」
年下の彼だが、中央から派遣されてきた「お客様」のような立ち位置から、メンター役とはいえ翔子は敬語をとりまぜて、この一年、彼と接している。
「そりゃあ、わかりますよ。前乗っていた水色の車で、沿岸出張に連れて行ってもらいましたし」
苦笑交じりに彼が言う。目を細めてくしゃりと笑う表情に、翔子はつい見惚れてしまう。ちょうど信号が赤に変わり、一時停止をした時だ。
「そうだった。一年、あっという間。本当にお疲れさまでした。ありがとうございます」
震災の被災県に、中央や他県から応援職員が派遣されるようになってだいぶ経つ。感謝の気持ちは忘れない。
信号が、青に変わった。
「本当は、『人生最後の車にしたいから、自動ブレーキとかいろいろ付いた新車がほしい』って、言ったんですけど」翔子はアクセルを踏みながら言った。「今は半導体不足らしくて。新車を買おうとしても一年待ちですよって言われて。まさか自分が外国の車に乗ることになるとは思いもしませんでした」
なるほど、というように彼が頷く。
「赤のフォルクスワーゲン、翔子さんに合ってますよ」
そうかなあと、翔子は小さく笑う。「でも、いい買い物をしました。思いのほか出費を抑えられたし、シートががっちりしているからドライブにむいているというか。『人生最後の車だなんて言わないでくださいよ』って、友人ーー中古車販売をしている業者なんですけどーーから言われて、そうだなあって。『最後』って決めつけることはないんだって、改めて思っちゃいました」
そういえば、好きだった作家の小説に「チャコールグレーのフォルクスワーゲンに乗った彼女」という表現があったことをふと思い出す。当時はチャコールグレーってどんな色だろうとか、フォルクスワーゲンのビートル、私もいつか乗ってみたいな、と想像をめぐらしたことを翔子は思い出した。そのことを言う前にーー。
「『最後』って決めつけることはない、か」
彼が、ぽつりと言った。
「うん、決めつけることはないですよね。おかげでこうして、思いがけずお気に入りの車に出会ったことだし」
しばらくはカーステから流れる男性ヴォーカルの歌声が、車内を満たした。彼は、なにやら考え込んでいるようだった。
ほどなく、彼が住む寮の近くまで来た頃。
「コンビニに寄りたいので、そこに駐めてもらっていいですか」
言われたとおり、翔子はコンビニの駐車スペースに車を乗り入れた。
彼は、車を降りるでもなく、体を翔子のほうに向けて口を開いた。
「あの……実は、このタイミングで言うのはどうかと自分でも思うんですけど。自分は『これが最初で最後』と決めていたんですけど、翔子さんが『最後って決めつけることはない』と言ったので……ちょっと混乱しちゃって」
「……何?」翔子はどきりとした。
彼は、ひと呼吸置いてから言った。
「僕と、結婚してください」
「結婚……」
「もっと早く言うべきだったとか、まず『付き合ってください』だろうとか、自分でも突っ込まずにはいられないんですけど」
頭をかき、一瞬顔を伏せた彼が再び上げた表情は、目をそらすのもためらわれるほど、真剣だった。
「あなたと結婚したい。生涯を共にしたいんです」
本当に、なんというタイミング。今月中に、あなたは東京に帰ってしまうのに。なんてこと。仕事はどうするのとか、翔子の頭の中もぐるぐるした。
だけど。
「私もーーあなたと生涯を共にしたい、です」
彼は言葉にならない声を上げ、翔子の両手を握りしめた。
最後とか決めつけずに、僕たちはこれからです。
抱きしめられた腕の中でそう聞こえて、翔子は頷いた。
この一年、彼の人柄に触れて、惹かれて。けれど、年下で。ずっとここにはいない人とわかっている。だけど。蓋をしていたそんな思いが、一気に溢れ出す。
彼も、同じ思いでいてくれたことが、何よりも嬉しい。
私たちはこれから。今日は最後であって、最後ではない。距離は離れてしまうけれど、私たちはこれから。
たくさん、たくさん話をしよう。
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