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あの夜
アントニーかしら。
この日、彼は馬車を使わなかった。行きは、徒歩で伯父の診察を受けに行った。
「どうせ伯母と従姉が出かけるだろうから、クイン伯爵家の馬車に同乗させてもらうよ」
彼は、そのように言っていた。
馬車を雇ったに違いないわね。
出迎える為にエントランスに向かった。
ありがたいことに、泊まり込みで働いているベッキーやマークは気がついていない。
エントランスの重い大扉を開けると、凄まじい風とともに雨粒が降りこんできた。
夜着に着替えていなくてよかった。シャツとスカートでよかったとも思った。
降り込んでくる風雨は、容赦なくシャツとスカートを濡らす。
その瞬間、大扉をこじ開けるようにしてアントニーが倒れこんできた。
「アントニー様」
彼の名を呼びつつ、助け起こそうとしゃがんだ。
「あの、奥様?旦那様、ずいぶんと酔ってらっしゃるようです」
その声でやっと、半開きになっている大扉の向こうにだれかいることに気がついた。
シャツにズボン姿で、両手で帽子をクチャクチャに丸めている。
口髭が目立っている。体も衣服もずぶ濡れ状態。
街の雇われ馭者である。
「送って下さってありがとうございます」
幾らか尋ね、彼が言った金額の三倍を支払った。
そして、彼を見送って大扉を閉ざした。
アントニーは、床に倒れたまま動こうとしない。
彼がこれだけ酔っている姿などはじめて見る。
こんなになるまで飲めるんだ、と逆に驚いてしまった。
付き合いですら、彼はほとんど飲まない。それも、失礼にならない程度である。
自分一人で二階にある寝室に彼を運べるだろうか。
マークを呼ぼうとしてやめた。
アントニーのこんな姿を見られたくない。
呼びかけても「う……ん」とか「ううう……」とかしか反応がない。
気合いを入れた。これまでの人生の中で一番気合いを入れた。
彼を肩に担ぎ、歩きだした。
彼は何度も何度も肩からずれ落ち、その度に担ぎ直した。さらに多い数、休憩しなければならなかった。
かなりの時間と労力を消費し、彼の寝室に運ぶことが出来た。
ちなみに、その翌日、体中筋肉痛で苦しんだ。寝台から動けないほどだった。
そんなわたしのやわな体はともかく、どうにか彼を寝台に転がし、とりあえずスーツのジャケットとシャツ、それからズボンを脱がした。
彼は眠っているのか、なすがままになっている。
いったい何があったのかしら?
フツーにかんがえたら、アナベルと大喧嘩して彼女のもとを飛び出し、感情のはけ口にどこかでお酒を飲んだという筋書きになる。
お酒に慣れない、というよりかはお酒に弱いであろう彼は、少しの量でもとんでもない状態になるかもしれない。
すべて仮定なのは、彼がどのくらいお酒をたしなめるか知らないから。
わたし自身が飲まないので、彼も公式の場以外でわたしの前で飲むことはない。
だから、知らないわけ。
だけど、だいたいいっしょに食事をしている。すくなくとも食事中には飲んでいない。居間にカウンターがあるけれど、酒棚のお酒は来客用であって、彼自身が飲んでいる場面に遭遇したことがない。
とりあえず、そこまで飲んでいない人が酒豪とはかんがえにくい。
もしも隠れ酒豪なのなら、わかるわけもないけれど。
雨がきつい為、ガラス扉や窓を開けることが出来ない。
室内に酒精と蒸し暑さがこもっている。お酒があまり好きではないわたしは、そのムッとこもるにおいで気分が悪くなってきた。
シャツもスカートもわたし自身も汗まみれ。はやくお風呂に入りたい。そう思ってしまう。
そこではじめて、彼が下着姿、具体的にはパンツ一枚で寝台の上に転がっていることに気がついた。
わたしが脱がせたんだから、当然といえば当然なんだけど。
淡いライトの光源の中、彼がずいぶんと痩せてしまっていることに気がついた。
とはいえ、彼の裸をいつ見たかはっきり覚えていないし、ということはどれだけ肉や筋肉がついていたかもはっきりとは覚えていない。
たしか、パウエル公爵家の別荘を訪れた際に湖で泳いだときに見たはず。
そのときには「彼って筋肉質だな。衣服からでは想像できないほど筋肉がついているんだな」、と感心した。
その記憶があるくらいだから、あのときにはすくなくともいまの彼の上半身よりずっと筋肉がついていたはず。
いまの彼の胸板は、薄い。胸板だけじゃない。腕も腹部も細い。
彼の病は、そこまで彼自身を蝕んでいるのね。
そう思いいたると、胸が痛くなり、喉を大きな塊が上がって来るのを感じた。
そのとき、彼がうめき声を上げた。
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