2017年 辰巳真司 act-1 <プロローグ>

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2017年 辰巳真司 act-1 <プロローグ>

その女はとにかくよく笑った。男の話は取り立てて面白味のあるものではないのに。何でも笑う女は頭が悪そうに見える。ただ、薄めの色彩に染められた細い指先には、ちょっとした品が感じられた。巻き髪、茶髪、そしてフローラルの微かな香り‥ 東京中野、木枯らしが吹き抜ける公会堂脇の裏路地。安い焼鳥屋の狭いカウンターで、冷酒のお代わりを頼む辰巳の隣にそのカップルは座っている。巻き髪の向こう側、上機嫌でくだらない社内のあれこれを話す男は、三十代半ばくらいか。その部下であろう女は二十歳そこそこだろう。辰巳は、馴染みの店主から酒の入った升を注意深く受け取ると、そのまま口を付けこぼれる前に啜った。 辰巳真司は、今年四十八歳になった。勤め先の会社が銀座にあるというだけで、田舎の旧友達は出世頭でもあるかのように賞賛する。実際は、社員十名に満たない印刷業界の下請けだ。浅草育ちの社長の裏表ない仕事ぶりが、得意の顧客を長年に渡って繋ぎ止めてはいるが、この業界も、インターネットによる手軽さと価格破壊が徐々に老舗の努力を蝕んできている。 結婚して二十三年。長男は今年から社会人になり、次男は無事希望の大学に入学した。 「ここまでは順調ね」 先日迎えた結婚記念日に、妻の由紀子が言った言葉が脳裏にこびりついている。順調とは言い換えれば可でもなく不可でも無い、ということか。ワイングラスの縁を人差し指で撫でながら、柔和な笑みを浮かべる由紀子‥ 入社したての間もない頃、辰巳が忘れた書類を胸に抱え、走って追いかけて来た取引先の受付嬢、それが彼女だ。額の汗を恥ずかしそうにハンカチで拭ったあの日の由紀子は、思えば隣の巻き髪と同じくらいの年齢だったはずだ。 と、その巻き髪が跳ねてフローラルが一瞬強く香った。男のつまらぬ冗談に身をよじった女の身体が、勢い良く辰巳の肩に触れたのである。 「あっ、すいませーん」 御座なりの謝罪にしては、やけに印象的な笑顔を辰巳に植え付け、女はすぐに連れの男との会話に戻る。 辰巳はその甘い残り香の中で、もう随分と昔の、短い夏を思い出していた。
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