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2017年 辰巳真司 act-11 <過去>
その日の夕食時、晩酌をしながら辰巳の父親が言った。
「平井さん、一度釣りをやってみたいって言ってたぞ」
茶碗でちびちびと焼酎を飲み、辰巳が作ったハムエッグを箸でつついている。
「明るくていい子だな、平井さん。今度イワナ釣りに誘ってやるべよ」
父親の言葉に付き合い程度の相槌を打ちながら、しかし辰巳の胸中にも平井由美が渦巻いていた。
送って行った彼女の家は、吊り橋からかなり歩いたところにあった。
竹林を背に、数軒の家がある一番奥の二階建て。小学生の頃、雅子の兄の秀夫とその竹林にかたつむりを獲りに行った覚えがある。
「ありがとう、送ってくれて」
彼女の姿が玄関に消え、辰巳が来た道を戻りかけた時、背後でその玄関を開ける音がした。振り向くと、初老の女性があわてて駆け寄って来る。
「辰巳さん、ですね?」
彼女は呼吸を整えながらそう言うと、突然その細い腕を伸ばし、辰巳の両手を掴んだ。
「あなたのことは由美から聞いてます。あの子と仲良くしてくれてありがとう」
目にはうっすらと涙が滲んでいる。
「あの子は私の娘の子なんです。父親がいなくて母親が働いてるから、小さい頃からいつもひとりぼっちでね‥でも、あなたのようないいお友達ができて、本当に感謝してるのよ」
細い腕に、ギュッと込められた力に辰巳は圧倒された。
ふと気付くと、父親は茶碗を手にしたまま深くこうべを垂れ、居眠りをしていた。居間の隣にある六畳間からは、微かに線香の香りが漂っている。
辰巳の母親は三年前に肺炎で亡くなった。以来、彼は父親と二人で全ての家事を分担してやってきた。薬缶の湯すら沸かすことのなかった父が、手打ちうどんまで作るようになったのは、元来凝り性であったせいもあるが、悲しみが深過ぎた為だと辰巳は思う。葬儀で、人目をはばからず号泣する父の姿が忘れられない。酒量が増えたのも、三年前からだ。
—小さい頃から、いつもひとりぼっちでねー
東京から来た少女の過去に、暗い闇が横たわっていることを辰巳は感じていた。
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