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農業水路管理官の筧卓は、中央監視事務所の窓から外を眺めた。
広大な水田地帯のはるか向こうの丘陵地帯には灰色の雨雲がなびいていたが、朝陽が差し込むにつれて、しだいに薄くなり消えていった。水田地帯といっても、まだ田植え前のこの時期は寒々とした茶色い泥がどこまでも広がっているだけである。畔の土手には散り始めた桜の木々も見えた。
筧は眠たい瞼に指先をあてながら紙コップのコーヒーを口に含んだ。熱い飲み物が目覚ましになることを期待したが、それほどでもなかったので少しばかり落胆した。まあ、いつものことではある。
筧は壁に並んだ20台の農耕用水路管理モニターを順番にチェックしていった。N県の平野部に位置する潟津市はその名が示す通り、海と潟津川と大湊川に囲まれた巨大な中州のような地形をしている。かつて、大潮になれば田んぼは海に沈み、嵐が吹けば河川は氾濫して田んぼは水没した。人々は海抜0メートル以下のこの土地を「地図にない湖」と表現するほどだった。潟津市の稲作の歴史は劣悪な自然環境との闘いでもあった。先人たちの土地改造が推進された結果、現在は揚水機場、排水機場、水量調整ゲート、水位局が稼働して、潟津市の農耕水系は一元管理されていた。河川から汲み上げた水は碁盤の目のように張り巡らされた水路を伝って田園にいきわたり、大雨などで氾濫した水は排水水路を伝って潟津川と大湊川に戻される。
筧が水利管理モニタのチェックを終え、予定表に目を通しかけた時、机の緊急時用の電話機が鳴った。たいがいは、動物の死体が浮いているとか、空き缶がたまっているとか、田んぼに流す水栓修理依頼など、緊急を要する事案ではないことがほとんどだった。だから筧は安易な気持ちで受話器に手を伸ばした。
「おい、六目水路だけど水が一滴も流れてないぞ。いったいどうなってるんだ?」
耳に飛び込んできたのは、男の慌てた声だった。六目水路とは、区画整理された田んぼの住所のことで、筧の頭に禁忌桜の咲く小高いオアが浮かんだ。
「一滴も流れていないって?」
筧はモニタに素早く目を走らせた。異常を感知するハザード・ランプは点滅していなかった。揚水機場と排水機場が高速で起動している様子もない。筧は今度は水位計に目を向けた。計器盤の赤い針が上昇を示してしていれば貯水量が増えており、下降していればそれは水路への放流を意味した。針は下がっている。つまり、水はまんべんなく流れているはずだった。筧は首を傾げた。
「こちらのモニタでは正常なんですけどね」
「モニタが正常でも、六目には流れてないんだよ。寝ぼけてないで、しっかりみてくれよ」
「わかりました。大至急調べます」
「ああ、そうしてくれ。これから田植えの時期なのに、水がないんじゃシャレにもならんからな」
「そうですね」
筧は受話器を置いた。同時に、電話機がまた鳴った。「はい、水路監視室です。どうしました?」
「水が止まってる。何かあったのか? 工事なら事前に連絡してくれないと困じゃないか」
「申し訳ありません。すぐ調べます。場所はどこですか」
「七目の水路だ」
「わかりました」
筧はガチャンと電話を切った。
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