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胡乱なる木ありと申しべく候……
筧は古文書の一節をつぶやきながら地下水路の天井を見上げた。そこは、ほぼ真上に禁忌桜が生えている場所であった。筧も佐藤玲奈も、それどころか水路監視局の管理官たちは皆このあたりの桜をよく思っていない。潟津市の治水がまだ不完全だった昔、大潮や洪水で町や田んぼが水没すると、必ずと言っていいほど死者が出た。死体は水流に翻弄されながら六目桜の周囲に漂着するのである。理由はわからない。その手の記録は江戸時代の古文書にもいくつか散見されていた。桜の祟りなのか地形的な問題なのか、いずれにせよ、屍の魂を食らう桜屍の魂をとして忌み嫌われるようになったのだ。
その桜木の真下で水路の亀裂を発見したということは、不吉な予兆を意味するのだろうか。
筧はひとり苦笑いし、首をぶるぶると横に振った。迷信などを真に受けてどうする? 目の前の亀裂を事故として受け入れ、手を打つのが管理官の仕事なのだ。
筧は腰を落として、亀裂へ目を凝らした。
川の揚水機場から汲み上げた水は、潟津市の田園地帯へくまなく供給され、農耕で使用済みになった水は排水機場へ流れていく。それが潟津市の農耕水路管理の仕組みだった。しかし、今そこにあるのはいずれでもない。亀裂に流れこんでいく水は、まるで底の下にもう一つ別の水路があってそちらへ吸引されているように見えた。
まさか。
筧はさらに姿勢を低くして腹ばいになり、顔を水の割れ目へ近づけた。
剃刀で裂いたような隙間の下に、水晶のような光がきらめいた。
ヘルメットランプを反射しているのだろうか。細心の注意を払って目を凝らすと、奥に鏡のような床が見えた。水は鏡のような水路へ滝のように落下して、どこかへ流れていた。
筧の頭には全市の水路図が入っているが、別系統の水路があるという話は聞いたことがなかった。
「あの人はまだ帰ってきませんか」
不意に、頭の上から女の声がして、筧は心臓をハンマーで叩かれたような衝撃を受けた。
「え?」
ぎょっとした筧は慌てて立ち上がった。赤色のレインパーカーにジーンズをまとった五十歳ぐらいの女が、期待を込めた目つきで筧を見つめていた。
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