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「ああ、びっくりした。あなたでしたか」  禁忌桜の近所の住人だった。見知った人物だったので筧は内心ほっとしたが、世間話をするには気を使わなければならない人物だった。名前は狭原美穂子。25年程前に彼女の婚約者(かれし)が春台風の水害で行方不明になったのだが、それを信じることができず今なお待ち続けているという古風で純朴な女性だった。当時、潟津市内の水路系はまだできたばかりで、瑕疵工事も多く、禁忌桜周辺の水路もその範疇に入っていた。 ー―あの人はこの桜を道標にしてきっと帰ってきます。だから、どんな云われがあろうとも、伐採だけはしないでください。伐採したら、迷子になって戻って来られなくなるから……  道行く人たちは、必ずといっていいほど狭原美穂子の口癖を聞かされていた。初めのうちはみな同情的だったがそのうちに疎まれるようになった。筧もその中の一人だった。  狭原美穂子は遠くを眺める目つきになった。 「あの人がもうじき帰ってきます。だから、ここに分岐路を作って六目と七目へ流れる水を止めせてもらいました。そうしないと、あの人がびしょ濡れになって戻ってこれませんものね」 「は?」  筧は思わず声を荒げた。この女は何を言っているのだ? 水田の重要なライフラインを破壊しておきながら、実現することのない妄想を俺に押し付ける気か。悲しい思いを正当化しているのだ。筧は不愉快になって尖った声ををだした。 「この場所は立ち入り禁止です。あなたは水路を故意に壊した。テロに匹敵するぐらいの犯罪ですよ。それに、どこからどうやって入って来たんです?」 「わたくしは壊してなどおりません。列車のポイントのように水の流れ道を変えただけです。あの人が帰ってくれば元に戻します。わたくしは25年も待ったのです。それぐらい許してください」 「あのねえ」筧は顔をしかめ、腹の中で舌打ちした。「そういうことじゃないんですよ、狭原さん」どうやって説教してやろうか、峻烈な言葉を探していると、胸元につけた無線機が鳴った。 「玲奈です。東町一帯が冠水してるそうです。すぐに東町の排水機場のポンプを稼働させた方がいいんじゃないですか。断水よりも冠水を優先させましょう」 「わかった、すぐ戻る。こっちも原因がわかったぞ。水路にポイントができて、別の水路に流れてた」 「ほんとですか」 「ああ」  筧が顔を上げると、狭原美穂子が背を向けて闇の奥へ歩いていくところだった。筧は呼び止めた。しかし、彼女は立ち止まることなく、暗がりの中へ溶け込んでいった。 「急いでください、管理官!」  玲奈の声がふたたび響いた。      
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